当時、唯一学ぶことができた西洋の言葉は、オランダ語だけだった。フルベッキ。 | くにまさのブログ

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     (『新・人間革命』第5巻より編集)

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        〈開道〉 12

 

 谷田が答えた。

 

 「日本に開港を求めてきたのですから、やはり日本語のできる通訳を乗せていたのではないでしょうか。

 

 つまり、日本語で話し合ったと思います」

 

 「黒木君は?」

 

 「いいえ、私は、むしろ英語ではないかという気がします」

 

 ・・・。

 

 伸一は、笑いながら言った。

 

 「みんな違うな。オランダ語なんだよ。

 

 そのころ、イギリスの船もやって来て、英語の必要性は考えられていたが、鎖国をしていた日本人が、唯一学ぶ事ができた西洋の言葉は、オランダ語だけだった

 

 ペリーもそれを知っていて、オランダ語の通訳を連れて来ていた。

 

 当時は、西洋の学問といえば、蘭学のことであり、なんでも、オランダ語を通して吸収していった。

 

 だから、日本人は、オランダ人から、実に多くのことを学んでいる。たとえば、あのレンガ造りの東京駅も、そのモデルはアムステルダムの中央駅なんだよ」

 

 (略)

 

 宣教師のフルベッキはオランダに生まれ、二十二歳の時に、希望をいだいて新大陸アメリカに渡るが、大病したのをきっかけに、神学の道を志す。

 

 そして、ニューヨークの神学校に学び、やがて、宣教師として日本に派遣されることになる。

 

 彼がオランダ人で、オランダ語ができたからであった

 

 彼のもとには、大隈重信や副島種臣、伊藤博文など、のちに明治維新を担う有能な青年たちが集まって来た

 

 英語もでき、オランダ語を話すフルベッキは、向学心旺盛な、日本の青年たちにとっては、いわば、新しい”知識の光源”であった

 

 山本伸一は言った。

 

 「明治の新政府が誕生すると、岩倉具視が団長となって、政府の要人たちが使節団を組織して、ヨーロッパ、アメリカに派遣されるが、それを提唱したのも、フルベッキなんだよ

 (つづく)