(『新・人間革命』第10巻より編集)
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〈桂冠〉 49
やがて、彼女は、男子部の幹部で建築家の藤矢英雄と結婚し、さらに、一児の母となった。
環境の変化があると、懸命に頑張り抜いて来た人であっても、多かれ少なかれ、信心の勢いを失ってしまうものだ。
だが、彼女は、結婚後も一歩も退くことなく、広布のために奔走し、女性リーダーとして、ますます力をつけていった。
そこで、本格的な広宣流布の新時代を迎えるにあたり、伸一は、彼女を女子部長に推したのであった。
青年部長の谷田、男子部長の渡、学生部長の立松、そして、女子部長の藤矢弓枝と、創価の新時代の黎明を告げる青年リーダーが、今、さっそうと躍り出たのである。
三月五日、東京地方は好天に恵まれ、春らしい、うららかな一日となった。
山本伸一は、この日を、胸躍らせて待っていた。
二月二十七日の本部幹部会で発表された壮年部の結成式が、夕刻から、学会本部で行われることになっていたからである。
執務中も、伸一は、壮年幹部の顔を見ると、嬉しそうに、何度も話しかけた。
「いよいよ壮年が立つんだね。これで、本格的な広宣流布の時代が幕を開けるぞ・・・」
広宣流布という壮大なる建築の柱は壮年であると、伸一は確信していた。日蓮大聖人の時代、在家の中心となって活躍したのは、いずれも壮年信徒であるからだ。
たとえば、鎌倉の中心人物であった四条金吾が、竜の口の法難(一二七一年九月十二日、日蓮大聖人が、敵対する極楽寺良観や幕府権力の策謀により、鎌倉の竜の口で斬首刑に処せられようとした法難)で、殉死の覚悟で大聖人のお供をしたのは、四十歳ごろである。
そして、極楽寺良観の信奉者であった主君の江間氏を折伏し、所領を没収されるなどの迫害が打ち続くなか、果敢に戦い抜いたのは、四十代半ばからである。
しかし、四条金吾というと青年信徒の印象が強い。それは、彼が大聖人に帰依したのが二十七歳ごろであったせいもあるが、何よりも広宣流布への一途さ、真剣さ、大情熱が、青年を思わせるからであろう。
