前回につづいて、わたしたちスクール・ダイバーシティの実践をふまえたダイバーシティ論の本、『ダイバーシティ・ポリス宣言』について。今回は、成蹊中高教諭の行田健晃さんが「書評」を寄せてくれてので、その全文を掲載させていただきます。ただし、この「書評」は、本の内容紹介でもないし、宣伝でもないです。そうではなく、この「書評」で語られるのは、学校を多様性仕様にしたいと考える「ダイバーシティ・ワーカーの教員」が、この本を読みながらあらためて向き合った「自身とダイバーシティ・ワーク」のリアルと言えそうです。ということで、以下、その全文です。
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《書評》駆け出しダイバーシティ・ワーカーが読む『ダイバーシティ・ポリス宣言』 行田 健晃
1.はじめに―そのけばけばしい表紙が持つ魅力―
「それ、何の本?」―伊豆へ家族旅行に向かう特急電車の中、何気なく『ダイバーシティ・ポリス宣言』(久保田善丈著、ころから社、2025年。以下、本書)を読んでいると、隣に座る私の家族が声をかけてきた。私は簡単に本書の説明をしながら、あることに気がついた。最初に手にしたときにはあまり気にならなかったのだが、本書の装丁は、本にしてはあまりに派手過ぎるのだ。蛍光色のイエローに、色とりどりのネイルが施された手。私が何も知らずに電車で本書を読んでいる人を見かけたら、思わず二度見してしまうに違いない。私の家族も、おそらく頭の中でそういう過程を通って私に声をかけて来たのだろうと思う。ころから出版社は、本書の中身について「いまの出版慣例に抗うかのような横組み、独特の文体」と書いているが注1、その前に、表紙についても何か一言必要だったのではなかろうかと思わずにいられない。
そしてこの、本としては型破りに黄色い「顔」が、まさに本書の内容を象徴しているのだということに気がつくのに、そう時間はかからなかった。一言でいえば、表紙がすでに<キャンプ>なのである。
私の家族も、このおどろおどろしくも、魅力的な表紙に惹かれて―あるいは眉をひそめてだったかもしれないが―私に声をかけたのであろう。本に目を向けさせ、その読者に内容を紹介させるところまでもが久保田氏の戦略であったならば―いや、それこそが久保田氏の戦略にちがいない。氏の満足げなニヤリ顔が目に浮かぶようである―私の家族は、ものの見事にそれにはまってしまったのであった。
2.中学校嫌いの中学校教員、そして駆け出しダイバーシティ・ワーカー
さて、本書の内容に入る前に、これを書いている私について述べておきたい。私は、二〇二〇年度から成蹊中学・高等学校で社会科の教諭をしている。所属は中学校だが、教科は中高一体であり、校舎もつながっているため高校の活動に参加することも可能である。新型コロナウィルスの流行に伴い、本来の学校生活を取り戻すのにはかなりの時間を要したが、世間や学校がおっかなびっくり元の生活に戻れそうかを試し始めた二〇二一年あたりから、私はスクール・ダイバーシティ(以下、SD)の活動にたまに顔を出すようになった。つまり私は、本書に示される活動期間の後半あたりから彼らと一応並走している、駆け出しダイバーシティ・ワーカーである。
私自身の青少年期はというと、高校時代はともかく、中学時代については思い出したくないことが多い。中学校の卒業文集の中の「クラスのみんなの誕生日」というコーナーに、クラスのメンバーであるはずの私の名前と誕生日がなかった、というエピソードを紹介しておけば、中学三年生時の私の立ち位置もうかがい知れるだろう。中学生時代に男性がマジョリティの羨望を集める「モテ」の要素、もう少し分解すれば「優れた容姿」「高い運動能力」「マジョリティ受けする愉快さ」といったものは、私には極めて乏しく、したがってマジョリティになじめるはずもなかった。勉強だけはよくできたので、今思い返すとクラスメイトたちに認められていた面もあったかもしれないが、人と交流するより、一人で考えごとをする方が好きだった私の安息の地は学級のマジョリティ、もとい学級の中にはなかった。
ともかくも、「『みんな』の中に自分がいない」という現実が鋭利なナイフのごとく自分に突き刺さったこの出来事に対して、当時の私はひどく落ち込んだ。自分のことを忘れたクラスメイト―誰が書いたのか知る由もないが、このページの構成に関わる人は、マジョリティの誰かと相場が決まっている―を恨みもした。だが今思うと、真に責められるべきはページの最終チェックを怠った学級担任である。
そして私は、それをついぞ担任に話すことができなかった。話さずとも、「お前が悪い」という反応が待っていることが一年間の観察を通して容易に推測できたからである。私の中学生時代は暗く息苦しい水中都市の中にあり、そこでは誰もが優雅に泳ぐ潜水士であることが求められた。そして、そうなれずに海底でぶざまにのたうち回る私の姿は、おそらくは誰の目にも映っていなかった。
この経験は、私が教員としてふるまう際の強烈な意識の柱を構成する一部になった。要するに私は、「中学校(のマジョリティ)嫌いの中学校教員」である。
3.駆け出しダイバーシティ・ワーカーの壁―「キルジョイ」な「ポリス」になれるか?
このような経験を経て教員になった私は、SDと親和性が高いことを自認している。SDの方針に賛同しているし、ダイバーシティ・ワーカーとして彼らとともに学校を誰にとっても居心地よくしていきたいという強い志もある。活動にかかわるメンバーたちを非常に頼もしく思っている。だが、私自身のこれまでの活動への関与の度合いを包み隠さず白状すると―彼らには大変申し訳ないが―心意気ほどに体が動いているとは言えない現実が横たわっている(先に、この活動に「一応」並走している、という書き方をしたのはそのためである)。それは、仕事に忙殺されているとか、dunchの時間に生徒関連の追加の業務が向こうから助走をつけて衝突してくるとか、そういうこととは位相の違う問題によるものであった。
本書に言わせれば、ダイバーシティ・ワーカーへの第一歩とは、「キルジョイ」な「ポリス」になる覚悟である。そして、これこそが私に活動へ二の足を踏ませた最大の原因であった。これは、私に限らずあらゆる駆け出しダイバーシティ・ワーカーがぶつかる最初の壁であるように思う。中学時代を思い返せば、私が「キルジョイ」な「ポリス」になる場面はそれこそ山のようにあり、SDに参加する生徒への共感は、このときの経験がもとになっている。侮辱のような言葉を浴びせられた後に「そんなにムキになるなよ」という言葉を投げつけられる形で「からかいの構造」を利用され、「キルジョイ」なピエロに仕立て上げられたことなど何度もあったし、曲がったことが嫌いな私は、マジョリティの「ポリス」に自分からなりにいくこともあった。かつての私は、マジョリティから距離を置いて(あるいは置かれて)いたがゆえに、「キルジョイ」な「ポリス」になれたのである。
だが皮肉にも、私の成長とそれに伴う周囲の環境の変化がこの勘を鈍らせた。私が何よりも毛嫌いしていた「バカ」「エロ」「暴力」の三原色が織りなすマジョリティ男子社会の原風景は成長とともに色褪せ、少なくとも私の周りでは素面の日常における覇権を失った。そして大学に入学し、自分と同じく教員の道を志す仲間たちに囲まれるようになった私は、いつのまにかマジョリティの温かく穏やかで底のない泥沼に、嬉々として全力ダイブをかましていた。
そしてそれは、教員になった後も変わらなかった。考え方の違いはあれど、教職という共通の土壌に順応した人間にとって、学校の職員室は―私が中学生の時には望むべくもなかった―安息の地であった。
しかし、ダイバーシティ・ワーカーの活動は、ときに安息の地の住人達に対しても「キルジョイ」な「ポリス」になることを要求する。彼らにとって甘くて歯触りの良い「お菓子の家」は、常にあらゆる生徒たちのアジールたりえないからである。この要求を甘受せざるを得ない状況が生み出す葛藤が、駆け出しダイバーシティ・ワーカーが抱える苦しみの正体である。そもそも私は、中学生の時ですら「ポリス」を「エンジョイ」することなど本心ではできていなかった。いくら「キルジョイ」なピエロに陥れられようが、屈辱を噛み殺して集団の中に無理に混ざろうとすることで、露ほども得られないと分かりきっているマジョリティの安寧をなんとか舐め取ろうと必死だったのである。まして、苦しい青少年期を乗り越えてやっとたどり着いた桃源郷に、自ら進んで背を向けねばならないとは―本書は、多くの駆け出しダイバーシティ・ワーカーが抱えるであろう、苦しくつかみどころのない感情に形を与えるとともに、乗り越えるべき壁を可視化する。
4.「マジョリティ化」への対抗―スクール・ダイバーシティの「失敗」とその暫定的結論―
ここまでに記された私自身のありようを見ても明らかであるが、そもそもSDの活動には、避けねばならない二つの「マジョリティ化」があるように思える。
一つは、この活動の担い手自身が「マジョリティ化」することである。中学時代にマイノリティの苦汁をなめた―否、もはや、しこたま飲まされたといっても過言ではなかろう―私が、成長するにしたがって生きやすくなっていったのは、自身を隅に追い立てた評価軸やマジョリティ男子社会を彩る価値観が相対化され、自身や周囲の環境が多様な色彩を帯びるようになったからである。だがその生きやすさは、実のところ同時に自身をマジョリティの中に無意識に組み込みやすくなったことによっても下支えされていた。自分を評価する軸の数が増えるということは、それだけ自分をマジョリティの中に潜り込ませられる可能性が高まることを意味するからである。
このことを十分に意識しないと―いや、十分に意識していても、というべきか―自分たちをマイノリティに追いやっていた要素とは全く別のところからひたひたと入線してくるマジョリティという名の暴走機関車に、気がついたら列をなして意気揚々と乗りこんでいた、ということが起きかねない。
そしてもう一つは「マジョリティへの過度な接近」、すなわち活動が「マジョリティ化」することである。SDの活動に携わる多くの人々も、潜在的には自身の主張をうまく周囲に浸透させたい、できれば味方を増やしたいと考えている。無論それは、活動の性格からいって必然である。敵ばかりを作っては活動が成立しなくなるし、取り組みを広げるためには多くの人を呼び込む必要がある。だから彼らは、マイノリティのために動くことを本義としつつも、実際には同時にマジョリティに完全には見放されないギリギリのラインを模索する。そしてときおり、気がつかないままにそのラインの向こう側に転がっている「お菓子の家」の材料集めを始めてしまう。「お菓子の家」はヘンゼルとグレーテルだけでなく、多くの人を招き入れるのに効果的である。だが、その魅惑的な甘い香りの源は、「ダイバーシティの腐敗」そのものにほかならない。
大変恥ずかしながら、私自身、SDの活動においてこの二つの愚を何度も犯しそうになっていることを認めねばならない。dunchの際に話を聞いていて受け入れがたい感情に支配されてうろたえることもあるし、「この活動は本当に周囲に受け入れられるのだろうか」と考えて不安になることもある。そんなとき、久保田氏の「めんどくさいね、最高だよ」という声を聞き、冷水を浴びせられたように我に返る。その繰り返しである。
だが本書によれば、これはSD自身がかつて来た道でもあるらしい。本書には、文化祭の来場者ボードに貼られた「彼氏が欲しい」と書かれた付箋を見て、それをあきれた感情とともにはがそうとしかけ、これが男性のものである可能性に思い当たってその手を止める描写がある。これは、無意識のうちに自分たちを「異性愛者」というマジョリティに乗り込ませてしまった前者の失敗例である。
また、本書にはまだ方針があいまいだった初期の活動において久保田氏が後者の失敗をしている描写がある。久保田氏が起草した活動のコンセプトには「マジョリティの意を汲む論法」が強くにじむ部分があり、本書ではこの部分に関する別の書き換えの可能性を示し、自己批判している。SDの活動は、こうした失敗を経ながらその活動を洗練させてきたのであり、どうやら後発の駆け出しダイバーシティ・ワーカーである私は、それを文字通り後ろから追っているということのようだ。
そもそもマジョリティへの過度な接近を防ぐために「キルジョイ」的な発想、あるいは<キャンプ>的なギラギラ感を活動の方針として明確に打ち出したのは、本書を読む限り、もととなったアーメッドの著作(の日本語訳)などが出た2022年頃からであり、要するにかなり最近のことである。ただし、その構成要素となる活動は以前から行われていたこと(「わがまま」、「遠巻きにされよう」など)を考えると「ダイバーシティの陳腐化」が進行して以後、これに対抗するように行われたSDの活動は、しばらくの間、明確な旗印を立てられないもどかしさを抱えていたのではないだろうか。
本書では触れられていないが、それを象徴するような事例がある。2021年度末(2022年3月)頃に、FM西東京が配信している「突撃!!お昼の学校!」第21回放送において、SDの活動が「ラジオ収録」という形で取材を受けた注2。だが、この配信の様子を改めて確認すると、生徒部との調整などもあったのだろうか、活動の紹介がかなりマイルドな表現に抑えられている印象を受ける。話題の中心は制服の新たな組み合わせの導入に関する話だが、その語りは穏やかであり、挑発的なニュアンスは影をひそめる。配信の終盤で久保田氏自らがSDの理念についての説明に乗り出したのは、この活動の核心部分を伝えきれていない焦りからくるものではなかっただろうか(この時、ラジオパーソナリティである小山千春氏の振りに対して、久保田氏が生徒を差し置いて最初に話を始めようとしたため、もう一人のパーソナリティである中村英将氏から突っ込みが入っている)。中村氏はこのラジオのブログの中で、SDの活動を「自分達の力で、学校という存在を最高の味方にしよう」とする活動だと評している 注3。中村氏はまた、尾崎豊の言を借りながら、学校の「支配」から逃げ、高校を退学していったかつての同級生と、あえてそれに向き合い、学校との関係を「支配」から転換させようとするSDのメンバーを対比させている注4。だがそれは、SDの一端を象徴するにしても、やや「お行儀が良すぎる」きらいがある。SDのメンバーからすれば、もう少し悪趣味で、ギラギラした魅力を帯びる<キャンプ>な部分を伝えたかったというのが本音ではなかっただろうか。どうやら「ダイバーシティ・ポリス宣言」は、理念の浸透と「マジョリティ化」の間で戦い続けてきたこの活動の、暫定的な一つの結論らしかった。
5.「教員」という権力、「シスジェンダー男性」という桎梏
前節までに中学生時代にマジョリティの爪弾き者だった私が成長し、教員になっていくにつれにさまざまなマジョリティの中に安住するようになっていく過程と、それゆえにSDの活動でさまざまな苦悩を味わっている現実を描写したが、現在の私の位置づけを考えるうえで避けて通れないのが、自身が「教員」という権力を持った「シスジェンダー男性」だということである。
考えてみれば、教員という立場はかなり特殊である。生徒たちの多くは、幼いころから教員の言うことについておおよその場合「正しいこと」、「従うべき対象」であるとあらゆる場面で教えられ、成長とともにそれを内面化する。教員が入学式を終えて教室に入ると、すでにそこには、自分に従うことを是とする価値観を帯びる人間たちが机を並べて座っており、教員もまたそれを所与の前提だとして疑わない。生徒たちの前にいる教員は、はっきりと「権力」を帯びた存在である。
その帰結として、教員が生徒に向き合うときの関係性は、その気になればかなり無茶が利く建てつけになっている。合理的な理由を示さないままに生徒の動きを封じることも、自分の好みの問題で生徒の主張を退けることも、一度やると決意すれば実行するのはたやすい。私はそのどちらも「禁じ手」として使うことを極力抑え込んでいるつもりだが、この「建てつけ」に慣れてしまうと、いざ中高生を目の前にしたときにどうしてもその封禁を緩めてしまい、そこに縋ろうとすることすらある。
もちろん、中高生と成人たる教員が見える風景は重ならない部分もある。中高生側が無茶な主張をしていることもある。ただ、このような状況では、dunchなどで立ち上がる意見に対して私が「非合理だな」と思ったとしても、「意見そのものが真に非合理である」のか、「教員が帯びる権力性を通したことによって非合理的に見えるようになった」のか、見分けがつかなくなる。特にSDは、非合理に見えるものを、「権力」が自分たちに押し付けている不条理に過ぎないと看破するところから話が始まることも多いため、この判断に「権力」のフィルターがかかることを避けられない教員という立場は、ダイバーシティ・ワーカーとしてのふるまいをより一層難しいものにする。
そして、そもそも「真に非合理かどうか」の判断そのものが、「シスジェンダー男性」というフィルターによって大きくゆがめられる可能性がある。この性質はあらゆるパターンの中で、現在の社会において最も有利な集団を構成するのであり、これが成長に伴って表面に浮上してきたことが私に生きやすさをもたらしたことを否定できないことが、その厄介さを余計に増幅させる。
本書では、久保田氏自身や周囲の教員の様子から、男性が有する無自覚な優位性について触れられている。いわく、男性と女性とでは「らしさの圧」が全く異なっていて、男性のみに許され、女性に許されない振る舞いが存在するという。この部分は、様々な例を用いて説明されているが、そのものズバリ、という表現を本書では出しかねており、私も言葉で表現するのはなかなか難しいと感じている。
これについて、関連しそうな話を挙げておきたい。しばしば巷では「男性は論理的、女性は感情的」などという話がまことしやかに囁かれるが、少なくとも「女性は感情的」であるという判断は、現在の科学的水準に照らせばただの誇張にすぎない注5。それでも女性に比して「男性は論理的」といわれる原因について、私はその「論理」とやらが、もとより男性に有利な方へ大きく傾いていることにあるのではないかと考えている。物事を論理的に説明しようとすると、どうしても言葉で表現できない「論理の底」に突き当たるが、この「底」が男性に非常に有利な形をしているのである。ここでいう「底」とは、例えば本書における「らしくない」男性教員がそれとなく愛されてしまう理由であるとか、男性がダメダメなままでも「あり」になりやすい一方、女性がダメダメなままでは「あり」にはなりにくいといった人々の目線の根源にあるもののことを指している。
本書ではポジティブな事例を挙げるが、逆もしかりである。自らに不服な状況に直面したとき、男性は多くの場合自らに有利な「論理」の範疇で反撃が可能であるのに対し、女性が同じ状況に直面した場合、「論理」の範疇では反撃できず、それ以外の推奨されない方法に頼らざるを得ない状況が多く発生する。男性に比して「女性は感情的」という認識は、女性が「論理」外の方法で自らの不服を訴えざるを得ない状況を多く生んでいる社会構造上の問題を、性差の問題にすり替えた錯誤である。こんな言葉がまかり通っているほどに、男性の無自覚な優位性は強い。
私は一人の「シスジェンダー男性」として、明らかに下駄を履いて/履かされていることに気がつかずに横柄にふるまう人々を苦々しく思っているが、同時に自身もこの下駄を知らず知らずに履いて/履かされている。「シスジェンダー男性」という桎梏もまた、ときにSDの活動との相性の悪さを覗かせることがある。
私が学校で活動するダイバーシティ・ワーカーの教員として活動するにあたっては、この二つの要素と向き合うことも避けて通ることはできない。本書で久保田氏は、この「組織の中でいつのまにか手にしている優位性」を自覚するとともに、それをも「多様性仕様」のために活かす戦略を見出しているが、この「優位性」そのものが、マイノリティへの理解を阻害しかねない性質を帯びていることも、改めて指摘しておきたい。
6.おわりに―モニョモニョとした読後感、きっとこれからも
これまで説明してきたような私自身の現状も影響を及ぼしているのであろうか、本書を読み進めていると、自分がダイバーシティ・ワーカーであることに対する矛盾じみた感情というか、なんというか、形容しがたい「モニョモニョ感」に正面からぶち当たる瞬間が何度もあった。SDで共有される「生きづらさ」に共感を覚え、ともにそれと対峙する連帯感に浸り、つかの間の「成功」に希望を見出したかと思いきや、次の曲がり角で「モニョモニョ感」と出会い頭の大事故を起こす。そのたびに私の思考は混乱し、戸惑いの中に歩みを止める。この本の読後に「何か重要なことを得た爽快感」のようなものはほとんど感じられず、残ったのは、名状しがたい、やはり何かこう、モニョモニョとした、としか表現できない手触りだった。
だが、おそらくはこの「モニョモニョ感」こそが、おそらくはこれからも最も大切にすべき、糖衣を剥いだダイバーシティの核にあたる部分なのだろうという確信がある。なによりこの感覚は、私自身がSDの活動においてしばしば感じる心のざわつきと、とてもよく似ているのだ。
マイノリティを自認する人々の「キルジョイ」な「ポリス」としての活動は、マジョリティを完全に敵に回すこともできず、自らの内なるマジョリティとも向き合わざるを得ず、それでいて結局周囲からあまりよい顔もされない―しかしそれでもみんなが生きやすい学校づくりに向けて、モニョモニョと前に進んでいく。「ダイバーシティ・ポリス宣言」の旗のもとに集まるのは、そのようなことにやりがいを感じる、極めて面倒な、本書の表紙のごとき<キャンプ>な人々である。
注1 https://x.com/korocolor/status/1892027630125273491
注2 https://842fm.com/blog/totugeki-ohirunogakkou/29971/
注3 同上。
注4 同上。
注5 https://psych.or.jp/wp-content/uploads/2017/10/75-9-12.pdf
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行田さん、ありがとうございます。こんな感じで、この本を読んだダイバーシティ・ワーカーの誰かが、あれこれ考るようなことになって、そして、そんな誰かたちがしゃべり合うような場ができると、それが一番かなと思います。もちろん、この本をきっかけに、新たにダイバーシティ・ワーカーになってくれるような誰ががいたら、それは大歓迎です。いずれにしても、行田さん、また、dunchで!