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スクール・ダイバーシティ

成蹊高校生徒会の1パートとして活動しています。あらゆる多様性に気づく繊細さ、すべての多様性を受け止める寛容さ、疎外や差別とは対極にあるこんな価値観を少しでも広く共有したいと思って活動しています。

 わたしたちの学校には、毎年1学期中間テスト直後にクラス毎の遠足があって、もっともやらかし系のジョークや悪ふざけが盛り上がりそうなタイミングなわけですが、今年度遠足前の最後のTV朝礼でのトークは、そこに水を差すような内容でした。英語で言うとkill-joy(キルジョイ)、こういうことをやるのもわたしたちの仕事だと思っています。鮮やかなキルジョイぶりでした。

AB:おはようございます、スクール・ダイバーシティです。

A:去年もこのタイミングで、こんな話をしましたが、スクール・ダイバーシティで受け継がれてきたこの発想を、今年も共有したいと思います。

B:「最近はなんか言うとすぐにハラスメントになるし、なんだか息苦しい世の中になったよね」—こんな声をよく耳にします。でも、その「息苦しさ」って悪いことなんでしょうか?

A:誰かが「ひとり」で抱えていた「息苦しさ」を、「みんな」が少しずつシェアする世の中になってきた-というふうに考えてみるのはどうでしょう?-という話です。


B:あえて強い言い方をしますが、例えば、教室で「ゲイのタレント」をネタにしたり、誰かの見た目をいじって盛り上がりたいのに、ダメだって言われて、「息苦しい」――。でも、それが苦しくて苦しくてもう限界!――という生徒は聞いたことがありません。

A:「一方で」、という話です。教室で盛り上がる「そんなネタ」が苦しくて苦しくてもういろいろ限界――という生徒は世界中にいます。これは事実です。  《注》


B:何が言いたいかというと、こういうことです。世の中はマジョリティのあたりまえに基づいて設計されてきました。それは、「楽しさ」や「笑い」についても同じです。じゃあ、いったいどうすればいいでしょうか?

A:少なくとも、公的な空間、参加がマストな空間、まさに学校がそういう空間だと思いますが、そういう空間では、こんなふうに想像力を働かせるといいのでは、と考えます。

B:例えば、遠足や修学旅行のバスを想像してみてください。「みんな」が楽しんでる、「みんな」が笑ってる――というそのとき、「みんな」というのは本当に「みんな」でしょうか? また、自分は本当に楽しみ切れているでしょうか?

A:「どこにだって、誰の中にだって、いろいろ〈はみ出している部分〉、マイノリティな部分があるはずだ」という想像力をいつも働かせること、やがて、そんな想像力が「標準装備」みたいになること――を目指すというのはどうでしょう? 

B:「息苦しい世の中になった」と言って嘆くのではなく、「特定の誰かたちにばかり負わせていた“息苦しさ”を、みんなで少しずつシェアする世の中になってきたのだ」――そんなふうに考えてみるのは悪くないと思います。

A:そうすることで、自分の中のマジョリティな部分も、マイノリティな部分も、あらためて大切にできるようになる、そんなふうにも感じています。

B:今日の話は、teamsにも載せるので、あとでチェックしてみてください。

AB:よろしくお願いします。


 「みんな」で盛り上がろうとする、まさにそのタイミングで水を差すような振る舞い、「キルジョイ」とはこういうことで、このトークは、マイノリティネタを無邪気に楽しめてしまうような「みんな」に向けたものに他なりません。そして一方で、そんな「マジョリティなノリ」を警戒していたり、そんな空気にうんざりしていた誰かたちが、「お?」となってくれるといいな、とも同時に思っていました。

 いずれにしても、こういったトークを各教室で生徒たちと共に聞いていた担任教員たちは、そのとき、どんな振る舞いを? ということは重要です。その眉の動きひとつで、足元を見られるかもしれない確信犯的にキルジョイなトークを投げたつもりですが、どうだったでしょうか?


《注》 ここではキルジョイとして振る舞うという難しさとは別の難しさにも触れておきます。このときのような強度の高いエピソードやもの言いが、「苦しくて苦しくて」の誰かたちにとって何かしらのトリガーになってしまうという可能性はつねに頭にあって、簡単ではありません。どう考えるかというと、例えば、このタイミングで突き刺しておくこと、キルジョイをやり切っておくことの方が、そうしないよりも「苦しい」を防げるかなと、そんなふうに考えます。ちなみに、2023バージョンはより強度のあるバージョンでした。

B:あえて強い言い方をしますが、例えば、教室で「ゲイ」ネタで盛り上がりたいのに、ダメだって言われて、息苦しい。で、それが苦しくて苦しくて死んでしまった―という生徒は聞いたことがありません。

A:「でも」という話です。教室で盛り上がる「ゲイ」ネタが苦しくて苦しくて死んでしまった―という生徒は世界中にいます。これは事実です。


 生徒たちはますます繊細になっているから少しソフトに―—という声も、深刻さを伝えるためには強度を保った方が―—という声もありました。そんないろいろをふまえながら、引き出しを増やしていくことが大切かなと思っています。