東京レインボープライド2016懇談会② | スクール・ダイバーシティ

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成蹊高校生徒会の1パートとして活動しています。あらゆる多様性に気づく繊細さ、すべての多様性を受け止める寛容さ、疎外や差別とは対極にあるこんな価値観を少しでも広く共有したいと思って活動しています。

 少し時間があいてしまいましたが、6月18日(土)、わたしたちスクール・ダイバーシティは、東京レインボープライド2016(TRP2016)共同代表山縣真矢さんとその参加者でもありスタッフでもあったみなさん3名(合同会社「Juerias LGBT Wedding」)をゲストに迎えて、懇談会を開催していて、すでに少しだけその様子をお伝えしています。
http://ameblo.jp/sksd14/entry-12173917566.html


 今回は、その後、わたしたちがミーティング―dunchなどを通じて交わした感想や発想を共有しておきたい思います。そこには、懇談会での気付きやそこから浮かび上がった検討ポイントが反映されていると思います。こんな感じです。

*緊張感はあったが、空気感がよかった。ゲストの方が自己紹介のとき「僕はゲイだけど―」と言っていたときにその言葉が当たり前に流れていったのは、スクール・ダイバーシティのイベントならではだと思う。
*TRPとこの懇談会を通じて、ストレートでLGBTの運動に関わるという可能性をはっきりとつかむことができた。自分がやろうとしていることの一つか。例えば、世の中に頑なな反LGBTの人々がいるということも確かで、それにきっぱりと立ち向かっていくことのできないマイノリティもいるという、そんなときどうすればいいのかということなどを考えたい。また「ゲイがバレるからTRP参加したくない、したくてもできない」という人もいるということを知った。先はまだ長い。早く大学生になりたい。
*「どんな形でもいいからまずは知ってほしい」と山縣さんが言ってたことは印象的。だから色々なスタイルのステージだったりフロートを受け入れているとのこと。そう考えると派手なところや、いかにもなところばかりに目を向けるメディアというのも、それもまたありなのでは。
*同性パートナーシップの動きをふまえたウエディング関連の参加。社会の変化を素早く反映した動きだと思う。
*「どっちでもいいよね」とフツ―に言える社会、そもそもみんな違ってるのがあたりまえで、話題にもならない社会がいいのでは、という話があって、そうなればいいのはもちろんだけど、ただ、現状では「どっちでもいいよ」って言えるのは「マジョリティ側」であるような気がする。でも、それでも理想的なあり方を語るのは大切だし、それは楽しい。
*韓国の「プライドパレード」の規模の大きさ、アンチ対プライドの話については関心大。韓国の反対派が激しいという話はとくに印象的で、日本のプライドは穏やかに進んでいるともいえるけど、認知度が高まったとはいえ無関心が多いのではという気も。
*韓国のプライドとの違いは大きい。プライド×ヘイトを警察が引き離すように立ちはだかる構図は日本の穏やかなパレードとはかけ離れている。パレードの規模自体も日本の数倍。盛り上がるにつれて敵意も増殖するのか?日本の「パレード」が穏やかに進んでいるのは日本社会がそれを受け入れているからという気はしない。嫌がらせを受けないことが無関心を意味してしまうような日本社会。あるいは、マイノリティに関心を寄せることがすでに無関心の対象になるような社会でわたしたちは活動している。しかも、この場合の「無関心」は目に見えない「敵意」である可能性がある。敵意が韓国や欧米に見られるようなヘイトという形を取っていない?ネット上でのアンチの存在は相当分厚いと思う。でも、ここは躊躇なくいきたい。誰でもマイノリティ性を持つし、誰でも次の瞬間にはマイノリティになるかもしれない。そうでなくとも、マイノリティがのんきにできる社会がそうでない人にとって生きにくいっていうことはないでしょ。
*「何も違うところはない」という納得の仕方が何回か発言として出てたけど、ダイバーシティのいろいろな場面で出ていた発想のひとつに「違っててもいいじゃん」っていうのがあったと思う。「同じだから仲間」というのはももちろん居心地いいけど、やっぱり「ぜんぜん違うけど仲間」っていうのがダイバーシティだと思うし、そんな頭の使い方が心地よい。


 当日の話題を聞いた当事者の友人からも意見や感想をもらっているので、ちょっとまとめて
おきます。

・寄り添ってくれるのはありがたい。
・話題になるのはありがたい。
・「お前、ゲイかよ」に対して反射的・攻撃的に否定しないことはすごく大切。
・「どっちでもいいじゃん」というリアクションについては、「私はストレートです」って言ってもらって、「でもあなたと一緒にパレードしたいです、楽しいから!」っていうのがいい。守られている気がして、でも「守られる存在である自分」がいやだ。
・LGBTということばやレズ、ゲイ、バイといった言葉は好きじゃない。
・「目の前に現実にゲイの人がいるということを実感したくて握手の手を握り続けた」という話には違和感。「珍獣」として扱われているみたいな気分。「存在を実感したい」の中に何か「上から目線」のようなものを感じてしまう。

 
 「どっちでも…」ついては、これは、違っててもぜんぜんよくて、楽しいからいっしょにいるということがうれしいということですよね、さっきの「同じだから仲間じゃなくて、違ってても仲間」と同じ問題だと思っていいでしょう。呼ばれ方。これについては、「先入観でくくられてる感」やバカにされた感じの略語がウザいのは、まさに誰でも同じでしょう。いずれにしても、懇談会の雰囲気ではなかなか言いにくいことを言ってくれた重要な声だと思います。そして、言われてみれば…ということでもあるのではないでしょうか。

 山縣さんがソウルの「プライド」でステージに立ったときの、受け入れられてるという実感の話と、何人かが指摘した「ダイバーシティな活動をやることはそれだけでマイノリティ性をまとうことになる」という発言は、実はつながっていて、ともにポジティブに読み込むことができると思います。山縣さんはこんなことを言ってました。

 「セクシャルマイノリティは、どんなコミュニティのなかでもマイノリティとしてポツンとしてしまう。でも逆に、どんなコミュニティともつながれる。ちょっとだけどどこにでもいるから」

 これは素晴らしいと思います。マイノリティ同士はつながることができるし、マイノリティに関心を寄せることでマイノリティにカウントされる人たちだってつながれると思う。映画「パレードへようこそ」でもそうだったし、そう考えれば、マンデラやハーヴィ・ミルクやマツコとだって仲間だっていう感触を持つことができるし、ガガやブラピ&アンジーだってもはやまったくの他人とは思えない。山縣さんや「Juerias LGBT Wedding」のみなさんについてはいうまでもないでしょう―この発想はとても気に入っていて、ふりかえってみると何回も言っていますが、これからもそうすると思います。ではまた。
http://ameblo.jp/sksd14/entry-11970128957.html
http://ameblo.jp/sksd14/entry-12176472011.html



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