トークライブ・ダイジェスト―イベント「編み物でもダイバーシティ?!」報告④ | スクール・ダイバーシティ@成蹊高校

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あらゆる多様性に気づく繊細さ、
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少しでも広く共有したいと思って活動しています。


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 さて、モノとジェンダー、モノづくりとジェンダーを考えたトークライブのダイジェストもいよいよまとめに入ります。最後は編み物のポストモダン。あらためて会場の教室を見回して見ると思い切って施された毛糸による飾り付けが、いつもとは全く違う空気を構成していることに気づきます。以下、ここからの続きです。
http://ameblo.jp/sksd14/entry-12179136593.html
http://ameblo.jp/sksd14/entry-12171428488.html

④「ポストモダン編み物」おもしろいかも
生徒f:ここにはいろんな毛糸オブジェあるけど、教室に毛糸キノコがあったら授業も楽しそう。
教員m:効率、スピード、量、まさにモダンを離れたところ、張り切っている近代を脱力させるような、こういうモノってまさに横山さんにいうポストモダンだよね。でも逆行するような流れの話も事前ミーティングであったような。
生徒f:あの例えば、文系理系の話。最近出た理系重視、文系いらないんじゃないのみたいな話は逆行してると思う。今日の流れに沿って考えると、ポストモダンを文系、一見役に立たなそうなモノ、回り道としてみることができる。で、理系をモダン、すぐに役に立ちそうなモノと考える。そうすると古典からモダンに行ったときの盛り上がり、バブルの感覚?を覚えているから、「夢をもう一度」的感覚で理系が提唱されてるのではないか。
教員m:なるほど。そうすると最近の男の編み物はまったく逆。例えば「押忍!手芸部」の活動とか、自分たちで自分たちをおもしろがる感覚があると思うし、編み物男子が編み物男子のパロディをおもしろがるような感性も全然近代主義的(モダン)じゃない。自分たちがやっていることを自分たちでからかっておもしろがって笑うという発想は全力で前に進むこと重視される近代主義ではないよね。こういう男の人たちはそうではない。機械から手編みへの回帰という意味でも、自分たちを引きで見て笑えてしまうという意味でも、つまり二重にポストモダンだなという気がする。
*「押忍!手芸部」はこちら。http://blog.goo.ne.jp/ossu-syugeibu
*編み物男子のパロディはこちら。http://pain-au-sourire.jp/?p=4812

⑤横山さんに「ポストモダン編み物」を語ってもらう
進行m:「震災復興と手編み」というトピック、この辺りのことは編み物のポストモダンと絡むと思うけど、どうでしょう。
横山:その通りだと思います。僕たちも南相馬で編み物での独立支援活動をさせていただいているのだけれど、実際に僕がうかがった際、現地の方が次のような言葉を伝えてくれたんですね。「何でこんなときに編み物?と思った。でも今となっては編み物に感謝している。編み物をしているときは他のことを考えない、いらいらしたり、悲しい思いをたくさんする中で編み物をすると考えずにいられる。それに編み物をしている仲間たちで共感し合える」。たとえば、こういう時間の使い方、つまり「自分の時間をどう使うか、彩るか」ということですけれど、編み物のそういう部分が被災地ではいい感じで作用しているのだと思う。
 あらためて整理すると、「モダン」「モダニズム(近代主義)」は「いけいけ」なんです。「俺たちはいける。なんとかできるんだ!」って感じで邁進するんです。でも3.11で「あ、まずい」となった。「解決できない問題もある」って。わかりやすく思い知らされたのだと思います。「本当は万能じゃない」と知っていながら、どこかで信じていた「近代の作り上げたもの」に、重大な穴があることを事実で見せつけられたのだと東京でも実感できたはずです。「モダンの限界」という言葉にはならなかったかもしれないけれど、どこかで警鐘を感じたはず。
その感じは時代的にわかりやすく社会に表出していて、たとえば文学や漫画では「町が壁で閉ざされていて、それをどうするのか」というイメージで表現されています。

(*以降、村上春樹『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』のネタバレを含みます。ご注意してください!!)
 1980年代に発表された村上春樹の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』では、壁に囲まれた都市に自分が閉じ込められていて、最後に自分は外に逃げ出す機会があるのだけれど、結局自分の分身だけを逃がして、主人公は壁の中に残る。壁はあり続けて、そこの中にいるというイメージ。これはやっぱり1980年代の作品だから、当時の「モダン」色が濃く作品に反映されているのだと思う。(横山注:でも、この作品が劣っているわけではありません。むしろすごい点があります。作品中、壁に囲まれた街は「住む者が外に出ずにその中で生きていけるシステム」を持っているにもかかわらず、どこか不穏に描かれているんですね。何かを犠牲にしているイメージが描かれているんです。それは「近代」そのものだし、主人公の最後の選択にしろ、当時はそうせざるを得ない空気感があった時代だったんだと思います。)
(ここまでで村上春樹『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』ネタバレ終りです)

 でも漫画家諌山創の作品『進撃の巨人』では、物語の冒頭、みんなが壁の中にいると、何だか分からない、しかも人間が敵わない存在が外からきてそれを壊してしまう。これは2010年頃の作品だから「モダン」の壁が壊されてしまうイメージが作品に反映されていると思う。この感覚は3.11に近いのではないかと思うんですね。僕らの「壁」は壊されてしまうのだ、それも人間がおよびもつかない圧倒的な力によって壊されてしまうのだ、というメッセージを感じることができる。これらの作品が流行ったのは、やっぱり時代の流れと、そこに生きる僕らの心情をどこかで表現してくれているからじゃないかな。
では「モダンの壁」って何か?というとそれは色々あるけれど、たとえばジェンダーなんかもその一つではないかなと思うんですね。こうやって考えると、色々と一致してくるから面白いものです。

進行m:「モダンが終焉する、そして再び手編みが始まる」という流れ、ここにいろいろなことを読み込んできたと思う。さまざまなポストモダン性、ジェンダーレスな可能性といったことが中心だったが、それは議論としてもおもしろいし、実際の社会生活の心地よさを展望できる可能性を感じさせるものだったと思う。
横山:編み物を通じて色々語ること、素晴らしいと思います。でも、夢中で編んでいるときの言葉のない感じもまたダイバーシティだったんじゃないかなとも感じています。



 このイベントは、参加者にとっての残り方とそうでない人たちの残り方の差がとても大きなイベントだということが終わってしばらくするとはっきりしてきたように思います。それは例えば、セクシャルマイノリティ関連のイベントやスクールカーストのイベントと比べてみるとよくわかります。こういったテーマは参加するしないにかかわらず、よくも悪くももやもや感がずっと漂い続けるのです。本人の自覚の有無にかかわらず、まったく無関係の人はいないからでしょう。
 
 でも、「編み物…」はちょっと感じが違いました。モノ・モノづくりは、むしろさまざまなもやもや自体に亀裂を入れる、というか、わたしたちをどこか別の時空に連れて行ってくれたり、発想の角度を変えてくれるような、そんな力があるように感じました。癒し効果が認められていたり、震災復興の場で求められたり、という話をこのイベントの企画を進める過程で知りましたが、なるほどこういうことか…とあらためて実感できた参加者も少なくないのではないかと思います。だから参加者にはとてもインパクトがあって、とくに「初編み物」組はリピーターになったり、そうでなくともリピーターになろうとしているといった感じですが、一方で、編み針と毛糸を手にしたことがない人たちは、あの「持っていかれる感じ」を想像することがたぶんできない―というわけなので、わたしたちスクール・ダイバーシティは文化祭企画にも「編み物でもダイバーシティ?!」コーナーを設けて体験&トークができる空間を提供、共有したいと考えています。たくさんの毛糸と編み針をそろえて待っているつもりです。

ご協力いただいたみなさま、ありがとうございました。では、また。

木に

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