てのひら | 交心空間

交心空間

◇ 希有な脚本家の創作模様 ◇

 ショート作品集『魅惑のスケッチ』は私の作品の他、塾生6名の作品も収録
しています。その中から一編を紹介しましょう。


        ※        ※        ※


『てのひら』  作・杉村孝則  挿絵・森田裕子


 柑橘系のコロンの香りで目が覚めた。咄嗟に少し体を起こすと、それまで額
と目を覆っていたらしい濡れタオルが胸元に落ちた。痛みこそ感じないものの、
頭は重い。体育の授業でサッカーをしていたことは憶えている。何かの弾みで
転んでしまい脳震盪でもおこしたのだろう。どれくらい眠っていたのか分から
ないが、四時間目の物理は授業に戻ったとしても、別の意味で頭が痛くなるだ
けだ。僕は体を起こすのを諦めて、再び枕に頭を沈ませ、濡れタオルを目の上
にあて直した。不思議と保健室にいるような気はしなかった。特有の消毒臭が
別の香りに消されているせいだろう。
 隣のベッドからは人のいる気配がしていた。柑橘系のコロンの香りはそこか
ら漂ってきている。
 ──女の子だ。
 この香りには覚えがあった。ベッドを隔てる乳白色のカーテンが時折もぞも
ぞ揺れる度に、その香りが僕の記憶を切り取ってプリントアウトしていく。い
つかの通学路、いつかの渡り廊下、いつかの下駄箱、いつかの手洗い場。彼女
の長い髪から放たれた残り香に導かれるように、僕はその時その場所で確かに
彼女を感じていた。ひとりよがりの記憶の断片……。

「吉澤君、もう少し休んだら帰ってもいいからね」
 保健の先生が、スタスタとサンダルの底を響かせながらやって来ると、無雑
作に僕の目の上の濡れタオルを取り上げ、代わりにてのひらを僕の額に置いた。
たいして心配でもなさそうな表情で、用事があるから少し席を外す、ようなこ
とを言うと、隣のベッドを覗いた。
「……日高さんも、ァ……眠ってる、可愛い寝顔ね」
 今度は急に赤ちゃんでもあやすような口ぶりで呟き、そのままそそくさと部
屋を出て行った。
 やはり柑橘系の香りの主は日高絵里だった。クラスが違うので、これといっ
た接点はない。たまたまベランダで掃除の時間に黒板消しをパンパン叩いてい
る時に、同じようにパンパンしている絵里と目があったり、廊下ですれ違った
りする程度だ。けれど、親しくないことが僕の中で絵里の存在を膨らませてい
る。絶えず僕の目は絵里を探していたし、僕の鼻は柑橘系のコロンの香りを辿
っていた。
 ふいにカーテンが揺れるのを感じた。さっきまでの微かな揺れではなく、ど
こか作為的な動き。見ると、カーテンの向こうにいる人物が手をかざしている
のだ。僕には一瞬それが何だか分からなかった。窓から差し込む陽光と室内の
蛍光灯の加減で、微妙に影が映っているに過ぎない。それが手だと分かるのに
少しかかった。
「誰?」
 絵里の声が小さく響く。
「ア……いや」
 僕は焦った。頭の中が真っ白になって何を言っていいか分からない。
「名前がないの?」
 絵里は不思議そうに聞いてくる。
「あるけど……」
 僕は名乗れなかった。名乗ったとして絵里の中で名前と顔が一致する保証は
ない。何組の人? と聞かれるに決まっている。絵里のことを知って以来、少
しずつ密かに作り上げてきた妄想の中の絵里と僕との関係が、現実によって壊
されてしまうような気がした。僕の中の絵里は、僕のことを何でも知っている。
好きな食べ物も、好きなテレビ番組も、血液型も、誕生日も。
「当ててあげよっか……ねえ、カーテン越しに私の手が分かる?」
 絵里は、それまでよりも強くてのひらをカーテンに押し当てる。
「うん……」
 僕は小さく応答した。
「そこに君の手を重ねてみて」
「……どうして?」
「そうしないと、君が誰だか当てられないよ」
 絵里が僕を誘っている。僕のことなんて知らないはずの絵里が、僕の手を欲
しがっているということだけで、僕の鼓動はとてつもない心拍数を記録する。
でも同時に怖い。もし絵里が別の男子生徒の名前を口にしたら……そう思うと
やりきれない。できればすんなりと当てて欲しい。名前を呼んで欲しい、でも
……。
「……たぶん分かんないよ、俺、目立たないし」
 逃げたかった。カーテン越しとはいえ、生身の絵里の手を実感できるチャン
ス。けれど、それ以上にショックを受けたくないという防御本能が働く。
「いいから、さァ」
 絵里は、そんな僕の微妙な気持ちの揺れなど知る由もなく、面白半分に誘い
続ける。絵里にとっては退屈しのぎのゲームに過ぎないのだ。
「う……うん」
 震える手を絵里の手のあるカーテンに伸ばした。どうやら体が反応してしま
った感じだ。もう考えるのはやめた、どうなってもいい、今は一刻も早く絵里
の感触を味わいたい、この機会を逃すと二度とないかも知れない。僕はてのひ
らを重ねた。すると絵里は指を絡めようとする。カーテンの厚みのせいで指は
触れ合うが、上手く掴めない。
「ねえ、手をグーにして」
 僕は従った。グーにした僕の手を絵里のてのひらが優しく包んだ。
 ──ウッ……。
 僕の体を味わったことのない快感が貫く。


「てのひら」挿絵


「私の勝ちだ」
 いたずらっぽく絵里が言う。
「え?」
「グー対パーで私の勝ち」
 そう言って絵里は手を離した。でも僕はそのまま手をかざし続けている。あ
まりに気が動転して体が動かない。
「……俺が誰だか分かったの?」
 動かない口を無理やり開けて声に出してみた。しかし、返事はない。
「……からかったり……してないよね」
 返事がない。
 僕は思い切ってカーテンを開けてみた。誰もそこにはいなかった。柑橘系の
残り香だけが漂っていて、シーツにこわごわと触れてみると、まだ温もりが残
っていた。


 六時間目が始まる前。生物の教室へ移動するため、渡り廊下を歩いていると、
向こうから友達と歩いてくる絵里の姿が目に入った。思わず立ち止まった僕に、
クラスメイトがぶつかりそうになりながらどんどん追い越して行く。顔なじみ
の生徒達と笑顔の交換をしながら絵里が近づいて来る。立ち尽くす僕のことな
ど気にもとめず、僕の前を通過する。柑橘系のコロンの匂いが僕を撫で回して
消えていく。絵里はいつもの絵里だった。僕のことなんか眼中にない。考えて
みれば保健室でのことは、まるで頭の中で描いてきた妄想の世界が、突如とし
て現実の世界に侵入したような感覚だった。彼女が絵里である保証はないし、
元々隣のベッドに女の子はいなかったのかも知れない。全ては僕が作り出した
幻だったとして、誰に迷惑がかかる? 単に僕ががっかりするだけのことだ。
 僕がふてくされつつ振り返り、去っていく絵里を見た時、一緒に歩いている
友達に気付かれないように、後ろ姿の絵里はさり気なく腰のあたりに持ってい
った手をゆっくりと広げた。夜明けを迎えた朝顔のように咲いた絵里のてのひ
ら。
 廊下の角を曲がって見えなくなる寸前の絵里が、ちらっと僕を見たような気
がした。
 ──凄いでしょ、当たりでしょ……。
 絵里のいたずらな小さな笑みは、そう僕に語りかけていた。


                              《おわり》


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