
Ignorance Squared(2乗) ― 無知の無自覚
僕が「公立の教師」や「駅弁教育学部」に厳しいのは、理屈以前に、幼いころの体験が根にある。
地元国立教育学部附属幼稚園の受験対策をしていた幼稚園でのことだ。
夜まで補習があり、地元国立の教育学部の学生たちがアルバイトで先生をしていた。
ある日、動物の名前を挙げる問題が出た。僕は元気よく答えた。
「クズリ!」
すると先生は即座に言った。
「そんな動物はいません。☓です。」
けれど、クズリは実在する。
英語で言えば “wolverine”。映画 X-MEN の主人公だ。
あのときの僕はまだ幼稚園児で、「先生が間違える」という発想すら持っていなかった。
だから納得がいかなくても、何も言えずに終わった。
家に帰ってすぐに動物図鑑を見直した。
ほらいるじゃん。
そのとき心のどこかに、言葉にできない小さな違和感が残った。
「先生って、知らないことを“ない”って決めつけるんだ。」
時が経ち、地元国立附属小・中学校で教育実習生を毎年見てきた。
春と秋に、それぞれのクラスに7〜8人ずつ。
教え方がうまい人もいれば、驚くほど下手な人もいた。
そのたびに思った。
――「あの“クズリに☓をつけた先生”は、きっとこういう人たちだ」と。
大人になって気づいた。
あのときの先生が本当に愚かだったのではない。(今思えば子どもが見てる動物図鑑の内容を覚えてないんだから準備不足ではある)
問題は、「知らないことを知らない」という構造にある。
自分は何でも知っているはずだ
↓
知らないことが出てくる
↓
「そんなものは存在しない」と決めつける
この自己防衛反応は、頭が悪い人ほど強い。
知らないことが“自分の無知”を突きつけるから、
それを否定することで自尊心を守ろうとする。
賢い人は、「知らない」に出会うと嬉しそうに目を輝かせる。なになに?知らない!教えて!
世界が広がるからだ。
一方、頭の悪い人は、「知らない」を敵とみなす。
自分の世界を守るために、世界の方を縮めてしまう。
僕にとって“教育”とは、この違いを超えられるかどうかに尽きる。
「知らない」を怖がる文化では、子どもは挑戦を避けるようになる。
「知らない」を楽しむ文化では、子どもは学び続ける大人になる。
“クズリ”を否定した先生は、僕に一つのことを教えてくれた。
無知は罪ではない。だが、無知の無自覚は罪だ。
それこそが、僕のいう Ignorance Squared だ。
そしてこの国の教育は、いまだにその平方根の中に閉じ込められている。
海の向こうは滝じゃないの
So yeah, the ocean doesn't fall off the cliff.
