海外へ赴任すると、現地の人たちとの距離を縮めるため、その土地の歌を覚えることがよくある。
仕事は基本英語だ。
でも、本当に打ち解けるには、その国の言葉で話そうとすること。その姿勢を見せることが一番だ。
香港では、現地社員との親睦のために広東語の歌を覚えた。
意味はほとんどわからない。
何度も曲を聴き、聞こえた音をそのまま真似する。
振り付けまで覚え、宴会で歌った。
タイでも同じだった。
顧客とのカラオケ接待では、当時人気だったタイのアイドルの歌をタイ語で歌った。
もちろん意味なんて全然わからない。
ここでも頼りになるのは耳だけだった。
聞こえた音を、できるだけ忠実にコピーする。
外国語の歌とは、そういうものだと思っていた。
香港で、邦人行員の女性と広東語のデュエット曲を歌ったことがある。
歌い終わったあと、ボクは内心、自分のほうが広東語を上手にコピーできたと思っていた。
ところが、一緒にいた現地社員のアニータの評価は逆だった。
「彼女のほうが広東語は自然ね。ジョージは英語みたいに口が動きすぎる。」
ショックだった。
ボクはそれまで、日本人は英語を話すとき、口が動かなすぎると思っていた。
顎をあまり動かさない。
唇もあまり使わない。
日本語を話すときと同じ口のまま、英語の音だけを出そうとする。
だから今、英語を教えるときは、音だけではなく口の使い方も説明している。
顎をどれくらい上下させるのか。
唇を横に引くのか、丸めるのか。
舌を口の前に置くのか、後ろに置くのか。
口の奥を締めるのか、開くのか。
どこに音を響かせるのか。
発音とは、結果として聞こえる音だけではない。
その音を生み出すための口の使い方でもある。
ところが、そのボクが広東語では、
「口が動きすぎる」
と言われた。
英語では「もっと口を動かせ」と思っていた日本人が、広東語では「動かしすぎる」と言われる。
そのとき気づいた。
言語には、それぞれの文法がある。
単語がある。
音がある。
そして、音を生み出す口の使い方もある。
英語を話している人を聞くと、文法も単語も英語なのに、なんとなくどこの国の人かわかることがある。
フランス人らしい英語。
ドイツ人らしい英語。
イタリア人らしい英語。
日本人らしい英語。
それぞれが、母国語で身につけた口の使い方やリズムを、英語の中へ少しずつ持ち込んでいるからなのだろう。
母国語は、頭の中だけにあるのではない。
舌にもある。
唇にもある。
顎にもある。
喉にもある。
言葉を覚えるということは、新しい単語や文法を覚えることだけではない。
自分の口に、新しい動き方を覚えさせることでもある。
自分の口がどう動いているかなんて、自分では見えない。
鏡を見ながら話すことなど、普段はほとんどない。
だからボクは、自分の口の動きについて、根拠のない自己採点をしていたことになる。
「日本人は英語を話すとき、口が動かなすぎる。」
その物差しは、本来なら他人を見て作ったものだったはずだ。
ところが、いつの間にかその物差しを自分にも当てはめ、「自分はちゃんと口を動かせている」と思い込んでいた。
しかも、広東語という別の言葉になると、その自己採点は急に甘くなっていた。
アニータのひと言がなければ、ボクは今でも、自分は広東語を上手にコピーできていたと思い込んだままだっただろう。
見た目と同じで、自分の口の使い方も、自分では見えていない。
ちなみに、ボクは今でも、あの広東語の歌詞を耳で覚えたまま歌える。
何十年かたってアニータにその話をすると、彼女は驚いた。
「まだ覚えているの? それはすごいね。」
ちょっと得意になったボクに、アニータは続けた。
「でも、相変わらず発音はひどいけどね。」
何十年たっても、採点は変わっていなかった。
