文明とは、知の上に築かれた橋のようなものだ。
私たちはその橋の上を歩いている。
けれども、自分が橋の上にいることを意識している人は少ない。
多くの人は、足元の構造を知らないまま、
「当たり前の便利さ」を享受している。
電気を知らなくても明かりがつく。
経済を知らなくても給料が振り込まれる。
法を知らなくても社会は機能する。
それは、誰かが考え、設計し、維持してくれているからだ。
«Your ignorance is on somebody else’s wisdom.
あなたの無知は、誰かの知の上に成り立っている。»
人間は「自由と平等」という美しい理想を掲げてきた。
だが、その理念の裏側で、
“考える者”と“考えない者”の区別が封じられた。
ここに、ジョン・ロックの罪がある。
ロックが説いた「自然権としての自由と平等」は、
人間の尊厳を守るための革命的な思想だった。
しかしその普遍性が、知の差までも封印してしまった。
考えない人も、考える人と同じ一票を持ち、
怠ける自由も、努力する自由と同じ価値を与えられた。
それはやがて、「知が報われない社会」を生む。
人間の善意は、やがて思考を麻痺させる。
「助けよう」という名のもとに、
考えない人々を増やし、
知の橋を腐らせていく。
多数決は、橋の維持よりも声の大きさを選ぶ。
こうして文明は、静かに崩れはじめる。
教育とは、橋の補修工事だ。
「線を引く力」は、腐食を見抜くセンサーだ。
事実と感情を分け、
善意と責任を分け、
自由と放縦を分ける。
それができる個人を増やさなければ、
自由も平等も、ただの“知の空洞化”に変わる。
ジョン・ロックは罪だ。
だが、ロックの罪を無意味に非難するのではなく、
彼の理想を知的にアップデートする責任が、今の私たちにはある。
自由とは、考える義務の裏返しであり、
平等とは、努力の前提を共有することだ。
無知でいられる自由は、他者の知への感謝の上に成り立つ。
その感謝を失えば、人類は再び猿に戻る。
知の橋は、人間であることの最後の境界線だ。
