弥生三月は別れの季節。思えば数多くの、というより関わった人々のほとんどと何らかの別れをしたことを経て今があるということに驚きます。そして、できればずっと側にいたかったのに離れてきた人々を思い出し懐かしさに胸いっぱいになるのです。(付き合う以前のものも含めてますのであしからず)

    恋愛を突き詰めて論じようとすると、いつの間にか動物学的に子孫繁栄への本能に帰してしまうのでやめておきます。人生にはロマンが必要で、動物学の追求もロマンがないとは言い切れませんが、一般的に人間学的な「恋愛」についての方が共感が得られて受けはいいと思いますので。


    坂口安吾は『恋愛論』の中で、恋愛について「先人はそのために失敗し後人も失敗するにきまっているが、さればといって、だからするなとはいえない性質のもの」と述べています。若い時にこのくだりを読んで、「失敗するかどうかは分からないじゃないか!」と、どこか悔しさを伴って憤っていたのは、失敗ばかり経験していたからに他なりません。今思えば、その後「成功した」はずの恋愛も、その後軒並みある意味失敗に転じてますから(^_^;)、坂口安吾の指摘は的を射ていたと、ずっと後になって納得した感じです。


    若かった時は、恋に恋するような、内側から湧き出てくるような衝動が確かにありました。小学校一人、中学校、高校時代は学年ごと六人に夢中になるような恋をしていました。今考えるとどうしてそんなに目移りしていたのだろうとしか考えられません。でもその全てに本気だったと思います。そしてそのほとんどは、相手と気持ちを交わすこともないまま不完全燃焼の状態で心に封印され、その後忘れ去られていきました。

    自分の気持ちに正直になれない不器用なところが目立ってましたので、好きな人の前だと何も言えなくなっていたなと、不甲斐なく思い出します。時代的な環境も影響していたかもしれません。高倉健の「不器用ですから」がカッコいいと言われてましたし。

    ただ一度だけ、高校3年の最後、卒業の直前に、一度も話したことのない人なのに自分の気持ちだけが勝手に内部増幅して、臨界点を超えたが如くコントロールが効かなくなって、どうやって調べたか相手の自宅に電話してしまったことがありました。確か母親が出て、しどろもどろの男子に疑念を持たれたものの、本人に代わってもらえたのは覚えています。その先は余りに苦しく語るに忍びないので詳細は省きますが、自爆状態で相手からしたらもらい事故のように迷惑だっただろうと思います。一度も話したことのない、学年は一緒でも一度も絡んだことのない相手から急に告白されても、困るしかないのは今になれば当然です。自分の未熟さに恥じ入るだけですが、あの時はそうせざるを得なかった。同じような経験を予備校の時にもしてますが、長文になるのでここでは省略します。自分のことながら惚れっぽかったことにあきれてしまいます。

    

    異性を好きになるのは、ホルモンの作用で体中が支配されるからだなんて言われても「だからなんだ!」と、嫌味なヤツにマウント取られそうになった時のような反発が起こると思いますのでやめますが、あの時の内側から湧き上がり、胸の辺りで苦しく行き止まってしまう苦しさは、今振り返るとすごい勢いで心が回転していたのだと確信します。まあほとんどが空回りでしたが。でもそれこそがあの時生きていたことの意味だったような気がするのです。オトナになるということが、その空回りを、家族という他者と一緒に実質的な回転に転じて行くことだったのだと、思うようになるのはだいぶ後になってからです。

    

    中学生の頃教室で、気になる異性が隣の友人と楽しそうにおしゃべりするのを斜め後ろから見ていたら、偶然振り向いた時に目が合ってしまった。すぐ目をそらして挙動不審になっている自分を自覚する余裕もなく、胸の高鳴りだけに支配され他の音は何も耳に入らなくなっていたあの時。あの頃はいつも視線の先には無意識のうちに探している姿がありました。目が合うことを望んでいるはずなのに、それを怖がってしまうジレンマ。家で秘密のノートに自分の思いを書き殴っては、その子の名前を何ページにもわたって繰り返し書いたりして、決して他者に見せてはならないのに心に収まりきらない想いを、何とか処理しようとしていました。今の時代にはあり得ないくらい効率の悪い青春時代でした。


    今となればノスタルジックな回顧しかない訳ですが、今の自分があるのは、あの時未熟だった自分や恥ずかしく情けなかった自分がいたおかげなのだと思うと、切なくいとおしくさえ思えてきます。その延長線で、最近長男が失恋したとまた聞きしましたが、慰めるより、彼自身がよりよく乗り越えていってくれることを祈るしかないと思うわけです。

    別れが新しい出会いを生じさせてくれるのは間違いないと思います。その意味も含めて「さよならだけが人生だ」という訳詩の卓越性を再考させられるのでした。

    恋の数だけ別れはある。でも新しい恋の可能性は常に残しておくべきかもしれません。人生が続く限り。