寄る年波なのでしょうが、体中に老化現象が目立ってきました。腰はもちろんのこと、五十肩では既に2年おきに左右両方激痛に襲われ、現在は両方とも寛解状態が続いています。フィジカルの衰えの余波なのか、最近はメンタルの方にも経年劣化が現れてきたようで、ちょっとしたテレビドラマのお涙頂戴的な、それが分かりやすいだけに昔は嫌っていた「感動的番組」にさえ最近涙腺が緩んでしまいます。というか、涙腺自体ではなく、緩くならないように抑えていたものが弱体化してしまったのかもしれません。それは何か?
我が身世にふると小野小町が詠んだように私自身もこの世に生きながらえているうち、身につけてきた生き方の方針=ポリシーみたいなものがありました。そんなカッコいいものではないのですが、単に「それなりに経験値のある人は初見で相手の本質が見抜いてしまうので、初めて会う人に気を抜いてはいけない」というようなことです。これは多くの人には当たり前のことかもしれません。でも自分にとってそれは苦労して学んだことで、常に結構緊張を伴うことでした。いつも素の自分を抑えて身構えていましたので。
一昔前、昭和の教えに「男は簡単に泣いたらあかん」というのがありました。侍の時代なら「武士は食わねど高楊枝」に近いのだろうと思います。男の生き方として「相手に弱みを見せない」のがカッコいいということです。結果として私の人生でカッコいい自分だったことなど一個もなかったのですが、自分のプライドとしてカッコつけることは必要でした(と思い込んでました)。まあそれが若いということだったのだと今になれば考えられる訳ですが。
しかし、還暦過ぎて他人からの評価があまり気にならなくなってきました。例えば一昔前には身なりに気を使って、好んでブランド品を身に着けた時期もありましたが、そのモチベーションが憑き物が落ちたようになくなってしまいました。そこには子育ての20年あまりで、育児は育自…価値観がかなり変わってきたこともあります。考えてみると、経験値の累積や感性の麻痺など、年を取るというのはこういうことかと思うようなことを経て、昔の自分では想像もできない自分になったのだとつくづく思います。
その延長線上にあることなのか、若い自分が許せてなかった「涙を見せる自分」は、もはやタブーとも思えない域にまで達しています。涙=弱いとは考えなくなくなったことと、周りに弱い人間と思われることがそんなに怖くなくなったことが、自分の変化をもたらしたのだと思います。人が他者に対して強がったり、逆に相手が悪いのに寛容な態度をとったりすることは、結局は相手に対してマウントを取ろうとしているに過ぎないのだと、何となく、でも確かなものとして自覚できるようになってきてきたのです。
ですからめっきり増えた白髪も、ごまかしようのないほうれい線の深いシワも、ありのままで安心していられます。他者の評価に対して、特に構えずに自然体でいられることは、何と自由なことかと感じます。ただ「自分が絶対的に正しい」と思うからそう感じるのではなく、そんなに正しくなくても特に問題ない、と何となく実感しているからなんだと思います。
涙に心の浄化作用があることは、誰もが実体験で分かっていることですよね。嫌なこともつらいことも、問題が解決までできなくても、きちんと涙を流して泣くことができれば、ある程度気持ちの整理ができるようになることを。私が若いときはそれがなかなかできなかったのですが、今は昔の分までできるようになったのかもしれません。当然、今の世の中泣けば何とかなることだけではないのですが、ともするとコントロールができなくなりそうな怒りや不安が渦巻く世界情勢の中でも、自分の心を安定させ、判断を誤らないようにするために「涙」が助けてくれるのではないかと、密かに考えたりします。今の自分にはそれが自然の状態なのかもしれません。耳順の次は「心の欲する所に従えども矩を踰え」ない境地が目標ですから。