土浦のホームに入っていた姉が亡くなったと、夜半2時すぎ目が覚めスマフォを見た時、その30分前にMessengerに次女から連絡が入っていた。すぐに返信し様子を尋ねた。一人暮らしだった姉は、もう6年ほど体調を崩し一人暮らしがむつかしくなり土浦のホームに入っていた。長女もホームを時々訪ね面倒を見ていたようだ。昨年11月、友人との会合が新潟であり帰省した折、姉の体調が悪化していることを聞いていたので、長女に連絡を取りあえる手配を確かめたが、もう目も見えないようだし、逢っても気の毒だから、と断られた。あの時もう少し押して逢っておけばよかった、と後悔している。

姉は若い頃、よく自分を誘ってどこかへ一緒に行くことがあった。たぶん一人で街に出ることが不安だったのだろう。中学生で6歳年下の自分が一緒であれば,街ブラが普通に楽しめたのだろうと思う。姉の青春時代、4畳半一間に7人家族が生活する状況は、年頃の彼女にはずいぶんと大変だったと思う。だから滝子の安井病院に、住み込みで看護婦見習いに出たのだろう。念願の市営住宅3Kにやっと当選し、岩戸町から中島新町に引っ越した時、自分が、部屋から月が見える、と喜んでいたと母が話していた。東京の酒屋に奉公に出ていた兄も戻り、新しい家での生活が始まった。父は自転車で熱田の工場へ通い、姉は三菱重工大江工場へ、兄は妻となる人に出会うミシンメーカーで仕事を始めた。自分は松下電工を退職し家の隣の、市工高電気科に入学した。姉が入学祝に旺文社の国語総合辞典500円をプレゼントしてくれた。その頃、叔母の紹介で姉が大阪の機械工具店で営業を担当していた小島さんと、見合いをし結婚することになった。夜桜のきれいな芦屋の小島さんのアパートを初訪問した時は、自分が同行した。大阪に向かう列車には、丁度姉のクラス会の日で、参加する人たちもたくさん乗っていて道中は賑やかだった。姉には一宮の問屋街で、自分が買える程度の着物をプレゼント、喜んでくれた。

姉が作った最初の朝の味噌汁の味が薄いと、小島さんから注意を受けたりしたが、大阪の街を案内してくれ大阪城を見物したり、道頓堀を歩いたり、夜は中華レストランでエビ料理を味わったりし、自分には初めての事ばかりで大満足だった。小島さんは芦屋で長女が生まれてしばらくして、千葉で独立することになった。岐阜の叔父は“黄金万力”のトレードマークを持つ機械工具店を長年経営していて、同業仲間とスウェーデンを訪問したこともあり、叔父からもいろいろ助言をもらっていたようだ。しかし次女も生まれ家族経営は大変だったようで、時には自分の貯金も期待されるような経営状況だったようだ。自分にも営業を手つだわないか、と誘いが来たりしたが、自分はもう人生の目標を立てていて、道草を食う時間はなかった。そしてとうとうどうにもならなくなったのか、夜逃げ同然で茨木、霞ケ浦近辺に引っ越した。 しばらくすると未知の分野の佃煮を勉強し、住居の横に工場を建て佃煮製造を始めた。今でも時々話題になるが、ウナギを捌く様子を見ていたアニタと子供たちがその様に驚いていた。帰省の折時々姉と会っていたが、当時家の本立には、佃煮製法の本がたくさん並んでいて、努力と勉強のあとが分かった。機械工具から佃煮への転換は大変だったと思う。娘たちは寄宿舎のある、皇居もときには清掃し皇后からお礼を受けるような、青森の神道系高校に入っていたので仕事に集中できたのだろう。仕事は順調のようで、名古屋にも資材の仕入れや商品の納入で訪れることもあった。習得したたれの作り方などは秘伝とかで、姉にも教えなかったそうだ。しかし交通事故で体調を崩し仕事に制約が出始めるようになり、やがてそれが原因かまもなく亡くなった。

小島さんもまだ元気な頃、土浦の国道沿いの家を末弟の案内で訪問したことがある。離婚した長女の息子の面倒を自分たちの子供のように見ていたが、厚木の高校に通う彼の応援もしていて、毎日駅まで10キロの送り迎えもしていた。息子は柔道にも精を出していたそうで、居間には洗濯した白い道着が広げてあった。まだ彼が中学生だった頃、スウェーデンに留学させたい希望があったようだけれど、言葉が英語ではないことが分かりそれは消え、ホッとした。その時、姉がお土産にと佃煮を箱に沢山入れて持たせてくれ、社員と分けあった。

どういう家庭状況だったのか、いつか家族の不和からスウェーデンに移住したいけれど、受け入れてもらえるか、と聞かれたことがある。50代の女性の移住も近辺で見たことはあるけれど、そんなに簡単なことではない。そのうちに忘れてしまったけれど、当時、家庭内は姉にとって大変な状況だったようだが、自分は海外にいるので詳しくはわからなかった。

自分には全く理解できないが、次女の結婚式には両親と長女は出席しなかった。代わりに私の両親と兄が出席した。妹8人、弟2人のアニタにもそれは理解できそうにないことだった。そのくらいおかしくなった家族関係で、自分は部外者的立場で帰省の折、どちらにも壁を作らず逢って会食をしいろいろ情報を交換していた。

両親を亡くした姉妹は、いつまでも解決できない問題にこだわっているべきではない。これからは二つの家族がうまく交流ができ、失った20年を取り戻すことを願ってやまない。

5年ほど前、お互いに先も見え始めたと思い、姉弟元気であるうちにみんなで集まろうと提案し、熱海のホテルに集まった。5人が揃った最後の集まりだろうと、記念写真を残した。そして去年、末弟が突然がんで亡くなり、一昨日姉が亡くなり、兄弟は3人になった。

     

                      

                               最後の5人姉弟写真