これから、梯子の物語に出てくる停点理論を少しずつ考察してみようと思います。
まず停点は、以前から書いている一瞬の「今」ということでしょう。想像によって創造された一瞬の現実世界。さて、停点理論ではこれらがひとつながりになったものをバイブルと呼んでいるようです。このバイブルに関する記述をいくつか見ていくと、これはどうも世界線の中の一部の、因果関係に縛られた一定区間ではないかと思えます。任意の停点を繋いでいく際にできるのが世界線。そうした世界線の中には人が生きていけないものもあります。逆に生きていけるような流れがバイブルなのではないでしょうか。
ゆんゆんが
とりあえず、このバイブルが閉じるのは二年と三ヶ月後だ
と書いたことがあります。その後にこう書かれています。
バイブルはページをめくられて次へと向かう
望む者は新しいバイブルへ引き継がれる
ここからバイブルというのは、ある区切りを持ったものだと言えます。その区切りというはやはり因果律ではないでしょうか。ある原因Aがあったために絶対に起きる結果Bがある。この二点をつなぐ無数の線がバイブルなのかもしれません。
完成されたバイブルは一つだけ
あとは落丁のようなもの
この言葉はとても興味深いです。とりあえずひとつ思い出したのが、ジョン・タイターの第三のFAXです。そこで彼は次のように書いています。
残念ながら、私の2036年から時間を進めると、2564年には壁にぶつかることも判明しました。その時間まで行った人はみな、何も存在しなかったと報告しています。マシンを止めると、暗黒と静寂に囲まれているというのです。
これはもしかしたら、タイターたちが無理やり新しい世界線を作っていった結果、落丁のような行き止まりの世界線ができたのかもしれません。
完成されていないその他のバイブルについて考察していきたいところですが、その前に、そもそも停点と意識の関係はどうなっているのでしょう。私達の自我は次々と別の停点に焦点を当てています。その中で自我は時間を感じています。ただ、自我がある停点を選んだとき、選ばれなかった可能性である停点にも自分は存在しています。ではその自我はどうなっているのでしょう。これは幽霊と同じ原理だと思うのです。
人は死ぬと肉体を脱ぎ捨て、その後しばらくするとアストラル体でいわゆる死後の世界に行きます。この際、肉体とアストラル体の接着剤的な役割を果たしていたエーテル体、または複体と呼ばれる身体が残ります。これはほっておけばいずれ霧散してしまうものですが、故人の未練がたくさんあったり、遺族たちの思いが強いと、このエーテル体が動き出すのです。これがたいていの幽霊だと言えます。エーテル体は記憶と結びついてはいますが、故人や遺族の思いが強くないと、単なる肉体的記憶でいつもの動作を繰り返すだけの存在となります。しかし思いが強ければ、ときにまるで生きている人のようになります。この状態の存在が、焦点の当たっていない停点にいる自分なのではないでしょうか。
大概の停点に存在している自分はそれだとしても、幽霊と同様に、選ばなかった可能性に対する思いが強ければ強いほど、その自分は本当の人間のようになることでしょう。すると、魂も一箇所だけではなく、複数の停点に焦点を当てるようになるのではないかと私は考えます。つまり生まれ変わりをせずに、一度の人生で複数の体験を積もうと、魂が考えるわけです。ある自我が焦点を当てていった停点の軌跡が完成されたバイブル。その他の落丁のようなバイブルには自我の欠けた自分がいる。しかしときにその自我も育って、そちらのバイブルも本物になったりするのではないでしょうか。ゆんゆんは落丁のようなものと書いたあとに、更にこう書いているのです。
しかしそれもまた本編たりうる
バイブルは複数あるというのも間違いでない
こんなことを最近考えています。これからさらに考察を深めて行きたいところです。