心霊研究の前半史 | Siyohです

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音楽とスピリチュアルに生きる、冨山詩曜という人間のブログです

先日ムーに、最近調べてきたことをまとめて、雑誌記事としては長すぎるのを承知で送ってみました。その結果まずは、エクトプラズムについて書くことになりました。1/20頃が締め切りということは、記事が出るのは2月中ですかね。

 

そのレジメですが、心霊研究の歴史の前半部分にあたり、それだけ読んでも結構面白いと思うので、ここに公開しましょう。これに後半の歴史を加えて、いずれ一冊の本にしたいところです。



第一章 全ての始まり、メスメリズム


18世紀後半。フランツ・アントン・メスメルは、独特な療法を行う医者だった。メスメルは、人体には何か見えない自然の力「動物磁気」が流れていて、その流れを整えることによって障害が治るという考えを持った。彼が試行錯誤の末に生み出した療法はメスメリズムと呼ばれ、原理はわからないものの確かに効果を示していた。しかも彼の死後にメスメリズムを引き継いだ各国の研究者たちは、被験者たちが深いメスメリズムの状態で透視、テレパシーなど、異常な能力を示すのを見始めたのだ。


第二章 最初の否定、そしてハイズヴィル事件


メスメリズムによって人間にはまだまだ未知の力があるのだと考えだした学者たちが出てくる一方で、自分の被験者たちには一度もそんな現象は見られないという学者たちもいた。その中の一人であるジェイムズ・ブレイドは、メスメリズムの手法を整理し、それに催眠という新しい名前を与えた。そして1844年の講演において、従来催眠によって発現するとされた、透視、千里眼、読心などが間違いであるとし、催眠はオカルトではなく科学なのだと主張した。ここから催眠時に起こる異常現象を研究することはタブーとなっていき、メスメリズムの歴史は一旦忘れられることとなった。
とは言うものの催眠状態で超常的な能力を発揮する人は後を絶たない。アンドリュー・ジャクソン・デービスは、催眠状態で透視能力や読心能力、ヒーリング能力も発揮し、「ポキプシーの千里眼」として評判になった。彼が1847年に出した著書『自然の摂理』は大反響を呼び、当時の米国の知識階級に大きな影響を与えた。この本で彼は、霊と人間が交信を始めることを予言している。そして1948年3月31日、ハイズヴィル村で多数の一般人が霊との交流をする事件が起きたのだ。


第三章 心霊時代の到来


この章ではハイズヴィル事件について簡単に解説した後、フォックス姉妹が史上初の職業霊媒になるまでを詳しく紹介する。
ラップ音はフォックス家のマーガレットとケイトがいるときに激しくなるのがわかり、二人は引き離された。しかしラップ音はそれぞれの姉妹についてきた。ケイトを引き取った姉のレアは、その現象に彼女たちが関係しているのをひた隠しにしていたが、ラップ音はときに大砲の音のように轟き、とても隠しきれなくなってきた。さらに霊たちは床に棺の絵を、それぞれフォックス家族の名前入りで描き、「あなた方が前に進まず、勤めを果たさないというのなら、すぐに棺の中に入ることになるでしょう」とまで言ってきたのだ。
こうした霊の説得に負け、フォックス姉妹が活動を始めると、霊界が存在すること、そこと交信することは可能であること、この二点を信じる人たちが増え始め、彼らは「スピリチュアリスト」という新しい言葉で呼ばれ始めた。スピリチュアリズムは宗教としても認められ、たくさんの教会、そして家庭で、毎日のように交霊会が行われる風潮になってきた。これには流石に知識人たちが黙っていられず、心霊現象の研究が始まることになる。

(フォックス姉妹)


第四章 心霊現象研究の始まり


最初に名を挙げた中で有名なのはイギリスの科学者ウィリアム・クルックス。彼は当時急速に有名になってきた非常に優秀な霊媒ダニエル・ダングラス・ヒュームを調べることにした。クルックスの調査によって、世間を騒がせている心霊現象は気の迷いだという報告が出るのを期待していた学者たちは。彼がヒュームを調べた末に未知の力を発見したという報告を聞くことになった。クルックスはその後も数人の霊媒たちを調べてきたが、その調査の中でも特に本格的だったのは、人体を物質化するフローレンス・クックの調査だ。そこで彼は、全身の物質化をしたケイティ・キングの霊の写真を何枚も取り、その研究成果を発表した。しかし世間はクルックスが気が触れたか、若い女性にたぶらかされたのだと受け取った。
一方、クルックスの研究をまともなものと受け止め、それに続く人たちも出てきた。そしてできたのが、1882年にイギリスで発足したSPR(心霊現象研究協会)。後日SPRの物理学者ウィリアム・バレット卿の勧めによって、アメリカでも同様な協会であるASPRが設立された。


第五章 心理霊媒


霊媒は、霊の言葉を伝えるなどの心理現象を主に見せる心理霊媒と、物理現象を主に見せる物理霊媒に分かれる。科学者たちは偶発的な心霊現象とともに、彼らを調査しだした。
この心理霊媒の研究によって死後の世界の存在を確信していく学者たちが出てくる中で、多数の科学者たちは、心理霊媒の届ける情報はあくまで副人格のものであるという考えを持った。その副人格が、遺族しか知らないはずの情報を伝えることがわかると、メスメリズム状態のテレパシー能力と同じとされ、遺族すらも知らない情報が来ると、今度は故人の記憶はどこかに溜まっていて、霊媒はそれにアクセスできるのだという説が出てきた。
そうした説さえ覆せるかもしれない証拠がこの後数十年かけて得られていくのだが、その内容はあまりに専門的すぎて、現在においても殆ど知られていない。心理霊媒の研究はあくまでひっそりと、歴史の裏側で行われてきたと言える。

(ひっそりとは言え、当時の新聞にはそれなりに載っていましたが。。。)


第六章 物理霊媒研究の難しさ


心理霊媒によって死後の世界の存在を確信した学者たちがいるとは言え、それはたいてい10年以上の緻密な研究の後だ。世の中を騒がしている心霊現象を調べてみようとする学者たちは、心理霊媒ではなく、わかりやすく超常現象を起こしてくれる、物理霊媒の研究を選びがちだと言える。だが物理霊媒の研究には根本的な難しさがつきまとう。彼らはトランス状態で不正を行う可能性が高いのだ。
パラディーノは世界中の学者たちから調べあげられた、実力のある物理霊媒なのだが、スキがあればすぐ不正をしようとするので有名だった。しかも研究者たちは、この不正がトランス状態でも起きるのを発見した。物理霊媒は心理霊媒よりもよりこの世に近い霊に身体を貸すため、本人の意識が高くないとすぐ、いたずらな霊に操作されて不正をしてしまうのだ。だがこうした説明は反対派からすれば詭弁に過ぎない。一度でも不正をした物理霊媒たちはすべて、偽物のレッテルを貼られていった。


第七章 サイエンティフィック・アメリカンのコンテスト


パラディーノを始めとして、実力のある物理霊媒たちがどんどんマジシャンあるいは詐欺師として認識され始め、果たして本物の霊媒はいるのか、と考える人たちが多くなってきた。そんな時勢の中で、科学雑誌サイエンティフィック・アメリカンが1922年、厳密な条件の下で超常現象を起こすことができる霊媒がいたら賞金を与えると宣言した。しかし開催から二年間、この賞金を獲得する霊媒は現れなかった。そこに副編集長のマルコム・バードが探してきた霊媒が、この記事の主題であるミナ・クランドンだ。バードは、マージャリーという名前でコンテストに出るよう、彼女を説得した。
この章では、マージャリーがなぜ彼の目を惹いたのかを紹介する


第八章 フーディーニとの対決


マージャリーと、サイエンティフィック・アメリカンのコンテスト審査員の一人だったフーディーニとのやり取りはよく話題になり、映画にもなっている。ある交霊会実験において、マージャリーの亡き兄である「ウォルター」は暗闇の中でこう言った。
「フーディーニ! ベルが鳴らぬよう、何か、おまえ、差し込んだな!」
灯りがつけられてすぐに、マージャリーが手を触れずに鳴らすはずだったベルに、消しゴムが挟まっているのが見つかった。その次の交霊会でも、始まってすぐウォルターが、フーディーニがマージャリーの評判を落とすために、何かキャビネットに入れたと言い出した。ウォルターの言葉に、フーディーニと他の調査員達は激論を交わし、ウォルターがついに「フーディーニ。ここから出て行け、そして二度と戻ってくるな。お前が出て行かないなら、俺が出て行く!」と言い出し、もう実験どころではなくなってキャビネットが開けられた。そしてキャビネットの中に伸縮自在の定規が見つかったのだ。しかしその後フーディーニは、マージャリーはその定規を使ってトリックをしていたのだと、あちこちで言いふらして、デモンストレーションをし始めた。
マージャリーは最終的にコンテストの賞金を手にできなかった。


第九章 学者たちの意見は分かれる


コンテストで賞金は手にできなかったものの、マージャリーの名はとても有名になった。一方1927年に、主に科学者たちに強い影響を及ぼした一件がある。
超心理学の父と呼ばれているジョゼフ・バンクス・ラインは1927年7月、マルコム・バードの強い勧めで、一度だけマージャリーを調査しに来た。彼が来た日、マージャリーとウォルターはそれほどの現象を起こせなかった。するとラインは交霊会の少し後で、そこで見たことはすべて通常のトリックで再現できるという論文を詳細に書いて発表したのだ。さらに、自分が一晩で見抜けたのに審査員たちはなぜ見抜けなかったのか、彼らはマージャリーとグルだったのではないかとまで言い出した。これに怒ったコナン・ドイルは、ボストンの新聞社に向かって彼を「記念碑的な大馬鹿」と呼ぶ電報を打った。
この影響からか、コンテストに関わった審査員の学者たちは次々とマージャリーを否定し始めた。ウォルターはマージャリーの副人格であり、死後の世界とは関係ない。エクトプラズムの成分を調査したところ、それが動物の肺と同じだったことから、外科医である夫がそうしたものを調達してきたのだろうということになった。しかしそのエクトプラズムが人体のあらゆる開口部から出てくるのはどうしてなのだろう。その説明として学者たちは、夫は優秀な外科医なので、彼女の身体にそのような仕掛けを施すことが可能だとまで言い出した。


第十章 エクトプラズムの研究


多数の学者が、マージャリーはやはり偽物だと言い出す中で、彼女を認め、その研究成果をネイチャーに投稿する学者が現れた。ロバート・J・ティルヤードはネイチャーの1928/8/18号に、「Evidence of Survival of a Human Personality(人間個性の死後存続の証拠)」と題した論文を発表している。ティルヤードはウォルターから許可を得てエクトプラズムに触り、その物質を「白くて、やや光沢があり、大きなカリフラワーの白い部分を調理してホワイトソースをかけたような、あるいは......調理した羊の脳のような」「よく膨らんだ空気入りタイヤのような、大きな張りと硬さがあり、圧力に対して生きているような反応もあった」と表現している。
ここで、ティルヤードのような良心的な学者たちによってエクトプラズムが研究されたことで有名な霊媒を紹介する。エヴァ・Cと呼ばれる霊媒は、不正を行っていないことを示すために、とことん科学者と向き合い、裸で実験をすることも厭わなかった。実験の前に人体の全ての開口部まで調べることを許し、ときには吐き戻しの手法をしていないことを示すために、嘔吐剤まで飲んで、それでもエクトプラズムによる物質化を示し続けたのだ。
マージャリーは学者たちに言われて、ほとんど裸に近い格好で交霊会を行うことまでは認めた。しかしそれ以上の、実験前に女性器を調べるなどの要求には答えなかった。そこまでしていれば彼女のエクトプラズムは本物だと認められたのだろうか。ただ、エヴァ・Cのレベルまで科学と付き合っても、まだエクトプラズムは偽物だという学者たちは残った。あるとき、彼女が物質化したものに、ある有名な雑誌のロゴが現れた。反対者たちは、エヴァのエクトプラズムが何かと平たく見えることと、この事実をもとに、紙切れを事前チェックにもひっかからないように隠していて、それをエクトプラズムとして出しているだけと結論したのだ。

(エヴァが偽物とされた原因の写真)


第十一章 幽霊の指紋


コンテストの前からマージャリーを調査してきたASPRには、ウォルターの示す超常現象によって、死後の世界の存在を信じる一派ができてきた。彼らは死後の世界があることを前提に、霊媒の能力がどうして成立しているのか、人とはどのような存在なのかと言った記事を発表し始めた。一方、そう簡単に死後の世界を認めてはだめだという会員が何人か分かれ、BSPRが創立された。ASPRはウォルターをマージャリーの亡き兄だと認め、その評判を保とうとしていたが、BSPRはウォルターがあくまでマージャリーの副人格だという姿勢を崩さなかった。
そんなASPRが、世間を納得させるために行っていた実験がある。1926年のある日、ウォルターが、自分の霊体は完全に肉体でいたときと同じで、ワックスに指紋を残すこともできると言い出したのだ。そして翌年にかけて一連の指紋採取の実験が行われた。ウォルターが汽車の事故で亡くなった日の朝、彼が髭を剃ったカミソリを、母親は遺品として大切に保管していた。交霊会で得られた指紋とこの指紋とを、ASPRが欧米の警察に比較鑑定を頼んだところ、どこからも同じ指紋だという証明書が返ってきた。


第十二章 指紋は歯科医のものと同じだった


指紋の件で、一旦落ちてきたマージャリーの評判は戻り、彼女の名前はますます有名になってきた。そこに1932年、BSPRから衝撃的なレポートが出た。そのレポートでEE ダドリーは、カミソリに残っていた指紋は不鮮明で証拠にならないとし、さらに1926年に採取された「ウォルター」の左右両方の親指の指紋が、ワックスを提供したミナの歯科医フレデリック・コールドウェルの指紋と一致すると主張している。
翌年ASPRはこの指紋だけに関する491ページに及ぶプロシーディングを出した。著者であるソログッドは、ウォルターの指紋にはネガとポジ、左右反転などがあり、しかもその一部が毎回変化していることなど、指紋がいかに超常的なものかを示している。それとともに、ダドリーのレポートにある左親指の指紋が、ASPRが保管している同日に得られた指紋と異なること、右手はたしかにすごく似ているが、具体的にある違いがあることを彼は述べている。
この指紋の件はその後、ASPRとBSPR、更に世間を巻き込んだ論争へと発展した。その中で同じ1933年、今度はバードの未発表のレポートがBSPRの記事に引用された。コンテストにミナを引っ張り出し、マージャリーの能力を詳説する本まで書いていたバードは、そのレポートでマージャリーの能力は本物だが一部に通常手段、つまりトリックで生じる現象もあったと告白している。
バードのレポートはマージャリーの力が本物であることが前提で、彼は不正を問題視していないと書いているのだが、頭の固い人たちは、一度でも不正を行ったことがあるのなら、その他の現象も全てトリックではなかったのか、と思うようになっていった。
一方ウォルターは、このレポートを次のように軽く流していた。
「まあ、彼が半分は幽霊の仕業だって認めたのなら、それはすべてが幽霊の仕業だったと認めたのと同じくらい良いことだよ」
そしてウォルターとASPRは指紋論争が続く裏で、新たな挑戦を続けていた。


第十三章 証拠は拒まれ、消えていく


1932年3月9日の交霊会においてウォルターは、これから指紋騒動が起きることを予見したように、さらなる証拠を作り出す試みを告げた。彼はまだ生まれていない子供の足跡を作成してみると言い出したのだ。その足跡はワックスに取られ、ウォルターはニューヨークに住むある夫婦の実名を出して、これは彼らから生まれる予定の赤ん坊の足跡だと宣言した
その夫婦は実在し、実際に赤ん坊が生まれたのだが、彼らはその足跡を取らせてほしいというASPRの申し出を断ってしまった。ASPRは次に、それがそこにあるだけで超常現象だと言えるものをウォルターに作ってもらうよう打診した。具体的には2つの木製の輪をつなぎ合わせてほしいというものだった。これをウォルターは難なくやり遂げ、二種類の別々の木で作成された輪が繋がったオブジェが複数作成された。ASPRはその輪につなぎ目がないことを証明するためにX線写真が必要だと考え、その一つを物理学者のオリバーに送った。しかし荷物を受け取ったオリバーは、その輪の一つが壊れているのを見たのだった。
その他の輪は、なぜか自然に外れて元の、それぞれに分かれた輪になっていった。ASPRはこの木環のことを記事にすることはなく、最後に残った輪をガラスケースに入れて大切に扱うことしかできなかった。この写真は今でも残っているが、写真を撮った人が2年後にまたASPRを訪れた時、その輪はガラスケースに守られているはずなのに、いつの間にか壊れてしまっていた。

(この画像は雑誌掲載用に購入すると、一点2万円以上しそう。円安がにくい。。。)


第十四章 最後の打撃


指紋に関する論争において、左手の指紋に関しては、ダドリーかその周りの誰かがワックスをすり替えた可能性が濃厚になってきた。そして右手は非常に似ているものの、プロシーディングで述べられている違いがある。そのためダドリーのレポートを信用しない人たちがそれなりに残っていた。ここに今度はSPRから、最終宣告のようなレポートが出てきた。1935年、指紋の権威であるカミンズ博士は、少なくとも右手の親指に関しては、ウォルターが残したものと歯科医のものとが同じことを完膚なきまでに示したのだ。このレポートでカミンズ博士はソログッドが発見した相違点をとりあげるのだが、少なくとも彼が手に入れた、ウォルターの指紋であるはずのサンプルはどれも、ソログッドが見つけた歯科医の指紋の特徴を持っていることを書いている。
指紋の超常性は疑いようがなく見えるのだが、指紋の同じ人間はいない。ということはやはりマージャリーは何らかの、誰も見抜くことができない超トリックを使っているという認識が広まっていった。


第十五章 世界は超常現象を否定する


この章では指紋が同じだったのはなぜなのかを詳細に考え、元々よく似ていた指紋が、集合無意識によってそっくりに変わってしまった可能性を述べる。例として早坂氏の「右回りのジャイロは軽くなる」という、ネイチャーにも載った論文の話を絡めながら、集合無意識が物理的な力として現れることがあるのを示す。
早坂氏は論文を投稿する前、嫌というほど検証実験を繰り返し、やはりどうしてもジャイロは軽くなると結論した。しかし論文を読んで追試した人たちのほとんどがその結果を再現できない。しかもその後で、今度は早坂氏自身も結果を再現できなくなってきたのだ。
字数が許せばここで、人類史上最強の霊媒といえるミラベリの写真の話、宜保愛子さんの検証実験の結果など、世界が超常現象を否定した例を述べていきたい。


第十六章 晩年のマージャリー


ラインはマージャリーとの一回限りの交霊会の後、ESPカードを用いた大々的な実験を始めた。彼の被験者の中には25枚中9,10枚を平均して当てる人がいて、厳密な実験環境下で実験を繰り返し、透視能力を持つ人は確かにいるし、平均よりもその能力が高い人もそれなりにいることをラインは示した。


この話を知ったマージャリーとASPRは、25枚中10枚を当てるのは簡単だと思い、同様の実験をしてみることにした。実験は条件を変えながら何度も繰り返されたが、マージャリーは平均して23枚を的中させた。1938年2月21日のTimesマガジンの記事によると、マージャリーたちはラインにもう一度来てもらい、この実験を行いたかったようだ。しかし彼は厳密な実験環境が構築できない限りそのような実験は行わないと断り、彼女の再挑戦は残念ながら成立しなかった。
1938-39年を彼らはこうした透視実験や、心理心霊現象(自動書記、霊信など)のテストをしながら過ごしていた。1939年12月に夫のクランドン氏が亡くなると、マージャリーはそれまでよりもっとアルコールにのめり込み、表舞台から身を引く。
ここまで書いてくるにあたっていくつかの資料を参照してきたが、中でもASPRのジャーナルと、トーマス・ティーツェによって書かれた「Margery」という本には、他では得られない情報がたくさん載っていた。このティーツェの伝記の最後に、当時とても有名だった心霊研究家ナンダー・フォーダーとマージャリーことミナとの、最後の頃の興味深い会話が紹介されている。本記事の締めくくりとして、これを紹介する。
 

(この会話の内容は、このブログのマージャリーシリーズ最終回をお読みください)