○前回、ブログ『煙波致爽殿』でも案内したように、避暑山荘は、南から次の九重からなることが判る。
1)麗正門(南) 2)午門 3)閲射門(内午門)
4)澹泊敬誠殿 5)四知書屋 6)十九間照房(万歳照房)
7)煙波致爽殿 8)雲山勝地楼 9)岫雲門(北)
○その前朝の中心が『澹泊敬誠殿』で、後寝の中心になるのが『煙波致爽殿』であった。麗正門から入場して、一通り見学して、最後の建物が雲山勝地楼になる。
○前回、案内したように、麗正門や澹泊敬誠殿の名が、「易経」に基づく由緒正しいものであったのに対して、煙波致爽殿の名は、康熙帝の御製詩『御製恭和避暑山莊詩』に基づくものであった。その差は歴然としている。
○そういう意味で、この『雲山勝地楼』の名も、康熙帝の御製であることに留意したい。
雲山勝地
康熙帝
萬壑松風之西,高樓北向。憑窗北眺,林巒煙水,
一望無極,氣象萬千。洵登臨大觀也。
萬頃園林達遠阡
湖光山色入詩箋
披雲見水平清理
未識無愆守節宣
(康熙) 康熙的《雲山勝地》詩前小序說:萬壑松風西側,有一座北向的高樓。登臨此樓,憑窗遠眺,可觀賞山巒林木、煙波水影,那一望無際的佳景,以其多姿多彩的氣勢,給人帶來精神上的享受。雲山勝地樓,的確是登臨觀景的好地方。
○この承徳市の避暑山荘を訪れて、清王朝が誰よりも中国人らしい文化と教養を身に着けていることに驚かされた。康熙帝が何とも立派な中国人であることに、今更ながら、気付かされた次第である。
○そのことは、ウイキペディアフリー百科事典が案内する康熙帝項目を見れば判る。
康熙帝
康熙帝(こうきてい)は、清の第4代皇帝。諱は玄燁(げんよう、燁は火偏に華)。満洲人、君主としての称号はモンゴル語でアムフラン・ハーン、廟号は聖祖、諡号は合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信功徳大成仁皇帝(略して仁皇帝)。在世時の元号康熙を取って康熙帝と呼ばれる。
西洋文化を積極的に取り入れ、唐の太宗とともに、中国歴代最高の名君とされ、大帝とも称される。その事実は歴代皇帝の中で聖の文字を含む廟号がこの康熙帝と、宋と澶淵の盟を締結させた遼最盛期の皇帝聖宗の2人にしか与えられていないことからも窺える。また祖の文字も、通常は漢の高祖(太祖高皇帝)劉邦など、王朝の始祖あるいは再建者に贈られる廟号であるが、康熙帝は4代目であるにもかかわらず太祖・世祖に続いて3番目に贈られている。
○つまり、中国で、万人が中国最高の聖帝と認めているのが康熙帝なのである。その別荘が、この承徳市の避暑山荘だと言うことである。ある意味、中国の文化の粋が、ここには、存在する。本当は、避暑山荘はそういうふうに見るものなのではないか。
○偶々、昨年9月に、久し振りに、蘇州を訪れた。その時の蘇州訪問の目的は、司馬遷の「史記」にある、伍子胥の足跡を確認することにあった。ついでに、拙政园や留园、沧浪亭、狮子林などを見て回った。それで、中国に『中国四大名园』の概念が存在することを知った。
○今回「北京漫歩」の旅で、訪れたのが、この避暑山荘であり、北京の颐和园だった。これで、『中国四大名园』の全てを見学することができたわけである。
○問題は、中国における庭園がどういうものであるかと言うことである。そのことが、昨年9月、蘇州で気になった。と言うのも、蘇州には、『苏州四大园林』なるものが存在し、その全てを見て来た。『苏州四大园林』は、宋・元・明・清代の庭園を集めたものであって、それがそのまま、中国の宋・元・明・清代の文化の結実であるように感じた。
○当古代文化研究所では、今まで、中国でも日本でも、多くの庭園を見て来ている。しかし、そういうふうに考えたことは一度も無かった。中国に於ける庭園とは何か。また、日本に於ける庭園とは。そういうものを考える契機になった。
○そういう意識で、承徳市の避暑山荘を訪れた。その避暑山荘を訪れ、その文化の高さに圧倒され続けている。まさに、中国文化の粋がここにある。そういうことを痛感させられた。
○たとえば、麗正門がそうである。承徳市の避暑山荘の正門、麗正門をくぐるには、当然、「易経」を確認しないわけにはいかない。乾隆帝直筆である「麗正」を掲げる麗正門は、「易経」の離卦にある、
日月麗乎天、百谷草木麗乎土、重明以麗乎正、乃化成天下。
に基づくものである。こんな崇高な志を掲げた門が麗正門なのである。
○つまり、承徳市の避暑山荘は、正門の麗正門から始まって、全てが文化享受の場であることが判る。そういうものを楽しむのが実は避暑山荘であり、中国の庭園なのである。それを受容するには、相当な時間と労力を要する。
○本当の文化受容とは、そういうものだと、避暑山荘を訪れて痛感させられた。あまりの文化の高さに圧倒されるし、なかなか付いていけない。それが中国では、文化を楽しむことである。結構、文化を楽しむことは難しい。