伍子胥と蘇州 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○今回、『寧波・杭州・蘇州・台北旅』の主目的の一つが蘇州訪問だった。その理由は司馬遷の「史記」にある。蘇州を作ったのは伍子胥だと言う話は、以前、何処かで聞いたあことがある。その伍子胥は、司馬遷の「史記」の列伝に記録されている。

○そもそも、司馬遷の「史記」自体が、何とも、古い。何しろ、「史記」の成立は、紀元前一世紀ころとされるのだから。当古代文化研究所は、「史記」の愛読者である。特に、列伝を愛読している。

○「史記」は名作である。機会を見付けては愛読している。中でも、最も名文なのは、誰が何と言おうと「項羽本紀」だろう。司馬遷が「項羽本紀」を6996字で書いていることを、多分、多くの方はご存じない。こういう芸当を、無造作にしているのが司馬遷の「史記」である。

○もちろん、「史記」、『伍子胥列伝第六』にも、そういう仕掛けが存在する。それを見付けるのが、司馬遷の「史記」を読む楽しみでもある。『伍子胥列伝第六』の仕掛けは、最後の最後、太史公曰にある。字数にして、百字。こんな出鱈目な名文は、何処にも無い。

【原文】

  太史公曰

  怨毒之於人甚矣哉王者

  尚不能行之於臣下況同

  列乎向令伍子胥従奢倶

  死何異螻蟻棄小義雪大

  恥名垂於後世悲夫方子

  胥窘於江上道乞食志豈

  嘗須臾忘郢邪故隠忍就

  功名非烈丈夫孰能致此

  哉白公如不自立為君者

  其功謀亦不可勝道者哉

○数えやすいように、原文をそのまま示すと、上記のようになる。ちょうど、百字であることが判る。もちろん、このままでは、何とも読みにくい。句読点を打つと、次のようになる。

【原文】

  怨毒之於人、甚矣哉。王者尚不能行之於臣下。況同列乎。

  向令伍子胥従奢倶死、何異螻蟻。棄小義雪大恥。名垂於後世。

  悲夫。方子胥窘於江上、道乞食。志豈嘗須臾忘郢邪。

  故隠忍就功名。非烈丈夫。孰能致此哉。

  白公如不自立為君者、其功謀亦不可勝道者哉。

○日本では、これでも、なかなか読んでいただけない気がする。書き下し文に改めておきたい。

【書き下し文】

   怨毒の人に於けるや、甚だしいかな。王者すら尚ほ之を臣下に行ふこと能はず。

  況んや同列をや。(天道)向に伍子胥をして奢に従ひ倶に死せしめば、

  何ぞ螻蟻に異ならんや。(伍子胥)小義を棄て大恥を雪ぐ。名は後世に垂る

  悲しいかな。子胥江上に窘しむに方り、道に乞食す。志豈に嘗て須臾も郢を忘れんや。

  (伍子胥)故に隠忍して功名に就く。烈丈夫に非ずや。孰か能く此を致さんか。

  白公如し自立して君と為らずんば、其の功謀も亦た道ふに勝ふべからざる者かな。

○何とも凄まじい文章であることに、驚く。司馬遷がそれぞれの列伝の最後に、それぞれの列伝の講評をしているのが「太史公曰」なのであるが、『伍子胥列伝』の「太史公曰」の全文は百文字ちょうどで、この数字はもちろん意識的である。このわずか百文字の文章に彼は「感嘆・抑揚・使役・反語・対句・感嘆・反語・感嘆・反語・仮定・感嘆」と十一個もの句法を羅列してみせる。こんなでたらめで、むちゃくちゃな文章など、それこそ空前絶後に近い。

○日本人の当古代文化研究所が、そう判断するのである。まして、中国人なら、なおさらのことであるに違いない。中国で、中国人に、この文の感想を伺ったことがあるが、あまり興味関心を示していただけなかった。逆に、こういう中国語に、何故、日本人が拘泥するのか、不思議がられてしまった。

○これが司馬遷の実力であることは言うまでもない。もちろん、司馬遷は伍子胥の大ファンなのである。その司馬遷の大ファンである当古代文化研究所が伍子胥の大ファンになることは、ある意味、当然の帰結である。

○ただ、当古代文化研究所には、『伍子胥列伝第六』を読んで、ある疑問が湧いた。それは『伍子胥列伝第六』の次の部分になる。

  乃告其舎人曰、必樹吾墓上以梓。令可以爲器。

  而抉吾眼懸呉東門之上。以観越寇之入滅呉也。

  乃自剄死。

○当古代文化研究所では、すでに、2013年3月に、蘇州を訪れ、二泊して、丹念に蘇州を歩いた記憶がある。

  ・テーマ「蘇州漫遊」:64個のブログ

  蘇州漫遊|古代文化研究所:第2室 (ameblo.jp)

○その時には、伍子胥までは思い至らなかった。その後、蘇州を訪れ、伍子胥の足跡を確認したいと思うようになった。それが上記した『伍子胥列伝第六』の部分になる。ここの、

  而抉吾眼懸呉東門之上。以観越寇之入滅呉也。

が気になって仕方が無い。蘇州で、越が攻めて来るとすれば、それは東門ではなくて、西門か南門だろう。それで、今回、そのことを確認するために、蘇州を訪れた次第である。