吉野ケ里フィーバー 幕開け | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○2023年11月27日付、朝日新聞の文化欄に、次の記事か掲載された。

      吉野ケ里フィーバー 幕開け

      邪馬台国時代 最大級の環濠集落発見

      Memory 写真は語る

「邪馬台国時代の『クニ』 最大級の環濠集落発見」の見出しが、一面トップに躍った。1989年2月23日付の朝日新聞西部本社版の朝刊だ。弥生時代後期では国内最大規模の2、3世紀に築かれた環濠集落が、現在の佐賀県神埼市と吉野ケ里町にまたがる吉野ケ里遺跡で見つかった。

 外濠内の面積は約25㌶。集落の周囲に長大な濠がめぐり、集落の一部は、南北約160㍍東西約70㍍の内濠にも囲まれて。邪馬台国の時代にあたる遺跡としては、初めて物見やぐら(楼観)が確認され、木柵を立て城柵として使われた土塁も見つかった。

 吉野ケ里フィーバーの幕開けだった。二か月半で約100万人の考古学ファンが押し寄せた。

 中国の史書「魏志倭人伝」には、「倭王卑弥呼」の宮殿の構造について、「宮室楼観城柵厳設(宮室、楼観、城柵を厳かに設け)」と記されている。吉野ケ里から、そのうち、「城柵」と物見やぐら「楼観」が見つかったのだ。

 記事は「古代史最大のナゾである邪馬台国の所在地をめぐっては、畿内説、九州説などの論争が続いているが、今回の発見は古代史解明への大きな手掛かりになりそうだ」と記す。いま歴史公園としての保存エリアは117㌶に及ぶ。(中略)

 福岡市などとされる奴国や、福岡県糸島市周辺の伊都国などは、魏志倭人伝にも名前があり、有力な遺跡も見つかっている。だが、吉野ケ里遺跡がどのクニの遺跡なのかは謎に包まれている。

 県文化課文化財保護・活用室の細川金也副室長(56)は「魏志倭人伝に名前が出ているクニは邪馬台国ではないが、分かっていない吉野ケ里には可能性が残っている」。吉野ケ里歴史公園には、年間やく70万人が訪れる。いま公開されている発掘調査の現場にも、見学者が絶えない。約二千年の時間を超えた謎とロマンが、人々を吉野ケ里遺跡に引き付ける。(三ツ木勝巳)

○何ともつまらない記事である。こういうものについて、何か書くことは無いと思っていたが、時間が経つうちに、逆に、こういうものをそのまま無責任に放置しておく方がもっと酷い気がして来た。それで、遅くはなったが、一言述べておきたい。

○と言うのも、ここのところ、当古代文化研究所のブログ『天皇家の故郷が狗奴国であること』が、鹿児島県のランキングに入っているとのデータが出た。それは次のブログになる。

  ・テーマ「日向国の邪馬台国」:ブログ『天皇家の故郷が狗奴国であること』

  天皇家の故郷が狗奴国であること | 古代文化研究所 (ameblo.jp)

○2021年3月3日に書いたブログが、何故、今頃に読まれているのかがよく判らない。ただ、今更、ブログ『天皇家の故郷が狗奴国であること』を読み返してみて、つくづく考えさせられたことは、朝日新聞の『吉野ケ里フィーバー 幕開け』記事の酷さだった。

○幾ら何でも、それは無いと思うのが、

  魏志倭人伝に名前が出ているクニは邪馬台国ではないが、

  分かっていない吉野ケ里には可能性が残っている。

と言う佐賀県文化課文化財保護・活用室の細川金也副室長(56)の言葉である。吉野ケ里遺跡が邪馬台国である可能性があると本気で信じている人が居ることに、驚く。それも、こんな理由で信じると言うのだから、話にもならない。

●ことわっておくが、邪馬台国も卑弥呼も、中国の正史「三国志」に書かれた史実に過ぎない。決して「魏志倭人伝」などを読んで解明できることでは無い。真面目に「三国志」を読まない限り、邪馬台国や卑弥呼の話はできない。

●佐賀県文化課文化財保護・活用室の細川金也副室長(56)は、おそらく、「三国志」を読んでいらっしゃらない。もともと「三国志」は、素人に読める代物では無い。本当に、真面目に「三国志」を読んでいれば、少なくとも、吉野ケ里遺跡が邪馬台国であるなどと言う発言は、あり得ない。

●「三国志」魏書、巻三十、東夷伝倭人条1986字の主題は、倭国三十国の案内にある。それは次のように案内されている。

  【渡海三国】
    ・狗邪韓国・対馬国・壱岐国
  【北九州四国】
    ・末廬国・伊都国・奴国・不弥国
  【中九州二十国】
    ・斯馬国・巳百支国・伊邪国・都支国・邇奴国・好古都国・不呼国
    ・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・
    ・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・(奴国)
  【南九州三国】
    ・投馬国・邪馬台国・狗奴国

●何時、誰が、何処で、読んでも、こうなる。申し訳ないが、吉野ケ里遺跡は邪馬台国に関する限り、問題外でしかない。ついでに言うと、魏国の帯方郡から邪馬台国までの道程も、陳壽は次のように、実に丁寧にかつ詳細に記録してくれている。

  帯方郡⇒狗邪韓國=七千餘里
  狗邪韓國⇒對馬國=千餘里
  對馬國⇒一大國=千餘里
  一大國⇒末盧國=千餘里
  末盧國⇒伊都國=五百里
  伊都國⇒奴國=百里
  奴國⇒不彌國=百里
  不彌國⇒投馬國=千五百余里
  投馬國⇒邪馬壹國=八百余里

●これで吉野ケ里遺跡が邪馬台国である可能性は皆無であることがお分かりいただけるのではないか。まずは、真面目に「三国志」を読むことだろう。「三国志」は世界の名著である。

●ただ、そう簡単に「三国志」を読むことはできない。中国で「三国志」を読むのは、中国の専門史家のみである。普通の人はまず読まないし、読んでも理解できない。中国では、それが常識である。「三国志」魏書、巻三十、東夷伝倭人条1986字のみを読んで、「三国志」を論じること自体が馬鹿げていることである。

●陳壽の故郷は、四川省南充市になる。もちろん、当古代文化研究所は陳壽に敬意を表して南充市の萬巻楼を訪問している。萬巻楼が彼の記念館である。

●信じられないかも知れないが、陳壽は倭国を尊重していた。東夷伝七国のうち、唯一、陳壽が評価している国が倭国である。彼は、倭国を次のように評価している。

  【原文】

  雖夷狄之邦,而俎豆之象存。中國失禮,求之四夷,猶信。

  【書き下し文】

  夷狄の邦と雖も、俎豆の象存す。中國禮を失し、之を四夷に求めるは、猶ほ信なり。

  【我が儘勝手な私訳】

  東夷は野蛮人の国ではあるけれども、そこにはしっかりとした礼儀作法を

  見ることができる。そういう礼儀作法は、中国ではすでに完全に失われて

  しまっている。そういうものを東夷に見ることは驚きである。これは本当

  の話である。

●「三国志」を真面目に読むと、こういうことが判る。もう考古学者先生の妄想が通用する時代では無い。佐賀県は、それこそ、真面目に自己反省する時期に来ている。もちろん、朝日新聞がそうであり、NHKがそうであることは、言うまでもない。