井持浦教会 | 古代文化研究所

古代文化研究所

古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○五島列島と言えば、島原や天草とともにキリスト教信仰の島として知られる。世界遺産に、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」と言うのがあって、2018年6月30日に、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、文化遺産として登録されている。

○こういう世界遺産に注文を付ける気はさらさら無いが、世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」と言う以上、福江島の教会が含まれないと言うことはあり得ない話である。ところが、現実には、世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に、福江島の教会は一つも含まれていないのである。何とも不可思議な話である。

○このことについては、福江島で最初に訪れた鐘崎教会のブログでも触れている。

  ・テーマ「海の民の肥国をさるく」:ブログ『鐘崎教会』

  鐘崎教会 | 古代文化研究所 (ameblo.jp)

○玉之浦町の井持浦教会もお洒落な教会である。青い空と海と山の中にひっそりと佇む協会は、趣があって良い。もっとも当古代文化研究所は敬虔な仏教徒であるが。

○こういうふうに、五島列島で教会だけが喧伝されていることについては、大いに異論を唱えざるを得ない。もともと、五島列島は神の島であり、仏教徒の島である。前回、案内したように、長崎県神社庁が記録する神社だけでも、福江島には78社も存在する。その数が教会数を圧倒していることは間違いない。大多数は完全に神道徒や仏教徒にあるのではないか。まずは、そういうことを認識することだろう。

○それでも信仰の自由は保障されなくてはならない。福江島には、教会が似合うことも確かである。それは教会が海や山とともにあるからではないか。勝手にそう思っている。

○インターネットで検索すると、次のページがヒットした。

      井持浦教会

井持浦教会は五島の他の教会と同じく江戸時代末期に大村藩から五島に移り住んだ潜伏キリシタンにより信仰の歴史が始まりました。

井持浦教会の建っている玉之浦一帯は、五島に迫害の嵐が吹き荒れた明治初期、唯一迫害を逃れた地区です。

地元の伝承によると、大村藩が側近のキリシタン鶴田沢右衛門を五島に流刑にしたところ、五島の藩主は領地であった玉之浦の立谷(大宝寺所有)を与え、ここに住むことをゆるしました。

また玉之浦地区は島の中心地から非常に遠隔の地理的条件もあり、キリシタンの探索や迫害を逃れた理由ではないかのことです。

当時、玉之浦湾の漁獲物を塩漬けにするための塩の生産が藩の財政を潤す重要な産業となっていましたが、これに従事していたのが潜伏キリシタンであったことなども迫害を逃れた要因ではないかと伝えられています。

明治30年(1897年)、全五島の宣教と司牧を委ねられたフランス人宣教師ペルー師の指導によりリブ・ヴォールト天井を有するレンガ造りの立派な教会が建設されました。

島内における木造からレンガ造りへの移行のハシリと位置付けられた教会です。

当時、日曜日のミサには井持浦の集落ばかりでなく浅切、黒小浦、蕨浦といった島山島の集落や、玉之浦湾に面した荒川、布浦、銭亀崎、山浦、一里鼻、笠神、イスズミ、赤崎といった小集落からろ舟を漕いで参加していました。遠い所は船で片道2時間あまりかかり、一日がかりのミサ参加でした。

  井持浦教会|世界遺産の島 五島市 (city.goto.nagasaki.jp)

○別に、次のページの説明もあった。

      井持浦教会とルルド

      五島の信徒に呼びかけ、島内の石を集め作られた日本初のルルド

かつて、大村藩からの移住キリシタンが潜伏し、五島藩が塩造りの竈場で働せたという地区です。 1897年建立のレンガ造教会が台風で倒壊し、1988年にコンクリート造の現教会となりました。

当時の五島列島司牧の責任者ペルー神父は、1891年、バチカンにこのルルドの洞窟が再現されたと聞き、五島の信徒に呼びかけて島内の奇岩・珍石を集め、1899年、日本で最初のルルドを作りました。

この霊水を飲むと病が治ると言われ、日本全国の信者の聖地となっています。

  井持浦教会とルルド | 教会 | 五島の島たび【公式】- 長崎県五島市の観光・旅行情報サイト (nagasaki-tabinet.com)