○2022年2月3日、京都ぶらり旅で、東寺へお参りした。東寺は大寺である。九条通りに、東寺の正門である南大門がある。だから、九条通から東寺境内へ入ろうとしたが、東寺の九条通には、堀まであって、入り口が無かった。それで、仕方なく東側の壬生通りの方へ向かっていったら、小さい西門があった。
○その西門をくぐって、すぐ右手にあったのが御影堂である。東寺案内図には、大師堂とある。私が東寺を参詣した時、御影堂前では法要が行われていた。したがって、邪魔にならないよう、除けて通った。御影堂まえには、次の案内板が設置してあった。
国宝 西院御影堂
司馬遼太郎
私は毎年、暮から正月にかけて京都のホテルですごす習慣をもっている。
訪ねてくるひとに京都のどこかの寺をそのときの思いつきのままに案内する
のだが、たいてい電話での約束のときに、
ーー東寺の御影堂の前で待ちましょう。
ということにしている。
京の寺々を歩くには、やはり平安京の最古の遺構であるこの境内を出発点
とするのがふさわしく、また京都御所などよりもはるかに古い形式の住宅建築
である御影堂を見、その前に立ち、しかるのちに他の場所に移ってゆくのが、
なんとなく京都への礼儀のような気がして、そういうぐあいに自分をなじませて
しまっている。空海に対する私の中の何事かも、こういう御影堂へのなじみと
無縁でないかもしれない。
『古往今来』(中公文庫)
『司馬遼太郎が考えたこと8』(新潮文庫)
収録の「歴史の充満する境域」
(昭和五十一年)
より抜粋
○司馬遼太郎には、大作「空海の風景」(1975年刊:中央公論社)がある。空海を語るにふさわしい作家である。また、東寺のホームページが載せる御影堂は、次の通り。
御影堂
大伽藍の建ち並ぶ境内の北西、築地で囲まれた一角が、弘法大師空海がお住まいだった御影堂です。弘法大師空海は、ここで講堂の立体曼荼羅を構想し、造営工事の指揮をとりました。
御影堂の建物は、後堂、前堂、中門の3つの建物で構成され、軒まわりは簡素な垂木、屋根は檜皮葺。建具は蔀戸や妻戸、縁には高欄を巡らす、落ち着きのある建物です。
御影堂は生身供がはじまる早朝6時から閉門まで、どなたでも自由にお参りができます。
御影堂〈大師堂〉|境内のご案内|東寺 – 世界遺産 真言宗総本山 教王護国寺 (toji.or.jp)
○また、別に、次のページも参考になった。
東寺大師堂(御影堂)
東寺大師堂(御影堂)は1898年(明治31年)12月28日に国の重要文化財、1958年(昭和27年)2月8日に国宝に指定されました。
東寺大師堂(御影堂)は真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)の住房(じゅうぼう)が起源です。弘法大師・空海は講堂の立体曼荼羅を構想し、造営工事の指揮を執りました。大師堂は後堂(うしろどう)・前堂(まえどう)・中門(ちゅうもん)から構成され、南北朝時代の1379年(康暦元年)の火災によって後堂が焼失し、1380年(天授6年・康暦2年)に後堂が再建され、1390年(元中7年)に前堂・中門が増築されました。
一般的に住房は僧侶が普段日常生活している部屋です。
一般的に御影堂は寺院の開基(かいき)・開山(かいさん)や宗祖の像を安置した堂塔です。御影堂は奈良時代頃から開山の没後に敬慕の心を込めて建立されるようになりました。御影堂は祖師堂(そしどう)・開山堂などとも言われています。
東寺大師堂(御影堂)は後堂に弘法大師・空海の念持仏(ねんじぶつ)とされる不動明王坐像(国宝)、前堂に弘法大師坐像(国宝)を安置しています。
不動明王は真言密教の教主・大日如来(だいにちにょらい)の化身とも言われています。大日如来が衆生を教化する際、通常の姿では教化できないので、忿怒相(ふんぬそう)をもって現れたとされています。不動明王は背に火炎を背負い、右手に悪を断ち切る剣、左手に救済の索を持ち、全ての悪と煩悩を抑え、全ての生あるものを救うと言われています。不動明王は五大明王(降三世明王・軍荼利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王)のひとつです。なお不動明王はサンスクリット語のアカラ(阿遮羅) を漢訳したものです。なお大日如来は平安時代前期に弘法大師・空海が密教とともに唐から日本に伝えました。
東寺大師堂(御影堂)・東寺見どころ(修学旅行・観光) - 京都ガイド (kyototravel.info)
○東寺で、御影堂は見落とせない。西門から入ったので、まず最初に参詣させていただいた。