○ブログ『出雲神の故郷が鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島であること』から『八雲立つ出雲八重垣が硫黄島のものであること』と、出雲神の故郷が鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島であることに言及して来た。これにはもちろん、理由がある。
○それは大和国一宮である大神神社の御祭神が出雲神だからである。大神神社の御祭神は、大物主大神と申し上げ、出雲神である。そのことについて、ブログ『出雲神の故郷が鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島であること』の最後に、次のように書いている。
・もっと大事なのは、この風景が大神神社が斎き祀る大物主大神が三輪山山頂から
眺める景色だと言うことである。それが大和国一宮である大神神社の御祭神が大物
主大神である理由である。その大物主大神の故郷が鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島になる。
○つまり、大物主大神が三輪山山頂から眺める景色が大和国原であって、その中に存在するのが大和三山、畝傍山・香具山・耳成山なのである。三輪山とは、そういう存在なのである。そして、正式に大和三山を眺めることとは、三輪山山頂から大物主大神が眺める景色を意味する。
○大和三山とは、何か。私たちは全くそういうことを意識しないで、大和三山を認識している。第一、最もよく大和三山を表現している書物が何であるかを理解している人自体が少ないのではないか。正確には、大和三山をご存じ無いし、大和三山を見たことも聞いたことも無い方が圧倒的に多い気がする。ちなみに、大和三山とは、次の山々を指す。
・畝傍山(199.2m)
・香具山(152.4m)
・耳成山(139.7m)
○当古代文化研究所では、これまで七回、奈良県橿原市を訪れ、実際に大和三山へ登っている。
第一回 1992年3月28日
第二回 2003年8月11日
第三回 2005年5月10日
第四回 2009年3月29日
第五回 2010年4月3日
第六回 2011年5月3日
第七回 2017年9月5日
○何故、そういうふうに大和三山詣でを繰り返すかと言うと、「万葉集」が記録する大和三山には、多くの問題が存在する。何故、そういうふうに、大和三山にだけ、問題が多いのか。「万葉集」を愛読する者であれば、誰もが抱く問題である。
○もちろん、このことについては、多くの万葉学者先生が指摘していることであって、万葉学者先生が多くの解決策を提示なさっている。しかし、どれ一つ、「万葉集」が記録する大和三山の問題を満足に解決はしていないのである。こんな不思議な話は無い。
○当古代文化研究所では、1990年ころに、すでに、この問題について、ある仮説を立てていた。ただ、大和三山がどういうものであるか。実物を確認しないで、結論を出すことも憚られる。それで1992年3月28日に、奈良県橿原市を訪れ、実際に大和三山へ登って来た。それ以前にも、何度か大和三山を眺めたことはあったが、登ってみるほどの興味は抱かなかった。
○大和三山へ登ってみて、当古代文化研究所の結論が正しいことを確信した。それは奈良県橿原市に存在する大和三山はレプリカであると言うことである。そして、本物の大和三山は日向国に存在する。それが次の山々である。
・うねびやま=霧島山(1700m)
・かぐやま=桜島山(1117m)
・みみなしやま=開聞岳(924m)
○ここでは結論だけを案内するだけである。これには膨大な検証を要する。その一端は、次のブログに書いている。
・テーマ「大和三山」:122個のブログ
○何とも恐ろしい研究成果である。これは従来の日本の歴史概念をひっくり返す内容である。それだけに丁寧な検証が必要であることは言うまでも無い。したがって、当古代文化研究所では、その検証をこういうふうに何度も繰り返しているわけである。
○ただ、大和三山が二つも存在するのでは、何とも紛らわしい。それで、当古代文化研究所では、奈良県橿原市のものを、現状通り、大和三山とし、日向国の本物の大和三山の方を邪馬台国三山と命名して、区別することとした。もちろん、それは邪馬台国がここに存在したからである。
●ここまで、ブログ『出雲神の故郷が鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島であること』から『八雲立つ出雲八重垣が硫黄島のものであること』と、出雲神の故郷が鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島であることと、出雲神の故郷を探求して来たのは、そういうことである。
●三輪山山頂から大物主大神が眺める景色の中に存在するのが大和三山である。つまり、大和三山とは、大和国原を意味する。その大和国原を領知する神が大神神社の大物主大神だと言うことになる。
●しかし、大和国の大和三山はレプリカに過ぎない。本物の大和三山である邪馬台国三山は、日向国に存在する。その景色がどういうものであるかを、理解する必要がある。
●それが出雲神の故郷である鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島であることは言うまでも無い。もともと出雲神である大物主大神が眺めたのは、硫黄島から邪馬台国三山を眺めたことになる。その風景は大和国とまるで相似形であることに、驚く。
●もっと言うと、大和国で畝傍山が何故、「うねびやま」と命名されたかを、説明することは、誰にもできない。それは畝傍山自体がもともと日向国のものであることを意味する。大和国のものは勧請された地名に過ぎない。
●それは香具山や耳成山にしたところで、同様である。絶対に大和国では説明不可能なのである。それが日向国ではきれいに説明できる。何故なら、香具山や耳成山はもともと日向国のものだからである。そういう検証を、当古代文化研究所では、すでに済ませている。
◎「万葉集」を丁寧に読むと、そういうことが判る。大和三山はもともと日向国のものである。そして、出雲地名が日向国のものであったように、大和地名そのものが日向国のものである。そのことを中国の正史「三国志」が記録している。次回はそういう話をしたい。