世界遺産:紀伊山地の霊場と参詣道 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○前回、ブログ『神代三山陵の先坣僑位』で、畿内に神代三山陵の先坣僑位が存在し、それは次のようになることを紹介した。

  ・吉野山=可愛山陵
  ・高野山=高屋山陵
  ・熊野本宮=吾平山陵

○当古代文化研究所がそういう研究をしていたのは、2008年ころである。実際、神代三山陵の先坣僑位を発見してみると、それが文化庁から、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」として案内されていることを知って、驚いた。

○それは文化庁の次のHPで確認することができる。

      世界遺産:紀伊山地の霊場と参詣道

      三つの異なる宗教の聖地

   古代以来、自然崇拝に根ざした「神道」、中国から伝来し

  我が国で独自の展開を見せた「仏教」、その両者が結びついた

  「修験道」など多様な信仰の形態を育んだ神仏の霊場を

  「熊野三山」、「高野山」、「吉野・大峯」に有します。

      世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の本質を探る

   紀伊山地は、神話の時代から神々が鎮まる特別な地域と考えられていた。
   また、仏教も深い森林に覆われたこれらの山々を阿弥陀仏や観音菩薩の「浄土」に

  見立て、仏が持つような能力を習得するための修行の場とした。その結果、 紀伊山地

  には、起源や内容を異にする「熊野三山」、「高野山」、「吉野・大峯」の三つの霊場と

  そこに至る「参詣道」が生まれ、都をはじめ各地から多くの 人々の訪れる所となり、

  日本の宗教・文化の発展と交流に大きな影響を及ぼした。
   『紀伊山地の霊場と参詣道』は、三重、奈良、和歌山の三県にまたがる「紀伊山地の

  自然」がなければ成立しなかった「霊場」と「参詣道」及びそれらを取り巻く「文化的

  景観」が主役であり、世界でも類を見ない資産として価値が高い。

  【世界遺産】紀伊山地の霊場と参詣道 (kiimountainrange.com)

○これだけでも十分と言う気もするが、念のために、文化庁の「文化遺産オンライン」が載せる『紀伊山地の霊場と参詣道』も、確認しておきたい。

      紀伊山地の霊場と参詣道(世界遺産登録年:2004年)

紀伊山地は本州最南端、太平洋に張り出す紀伊半島に位置し、標高1,000m~2,000m級の山脈が縦横に走り、年間3,000mmを超える豊かな降水量が深い森林をはぐくむ山岳地帯です。
紀伊山地は太古の昔から自然信仰の精神を育んだ地で、6世紀に仏教が伝来した以降、紀伊山地は真言密教をはじめとする山岳修行の場となりました。中でも、山岳修行により超自然的能力を獲得することを目的として10世紀中ごろから11世紀代に成立した修験道は、特に大峰山系の山岳地帯を中心的な修行の場としていました。また、9~10世紀に広く流布した「神仏習合」思想(日本古来の神々は仏教の諸尊が姿を変えて現れたものとする日本固有の思想)の聖地としても信仰を集めていました。
さらに、10~11世紀頃の日本では「末法思想」(仏法が衰え世も末になるという思想)が流行し、死後に阿弥陀仏の居所である極楽浄土に往生することを願う「浄土宗」という仏教の教えが貴族や庶民の間に広まりました。これに伴って、都の南方に広がる紀伊山地には仏教諸尊の浄土があると信じられるようになり、この地の霊場としての性質がいっそう強まりました。この地方の神聖性がことさら重要視されるようになった背景には、深い山々が南の海に迫るという独特の地形や、両者が織り成す対照的な景観構成などが大きく影響していたものと考えられています。
このような特有の地形及び気候、植生などの自然環境に根ざして育まれた多様な信仰の形態を背景として、「吉野・大峯」、「熊野三山」、「高野山」と呼ばれる顕著な三つの霊場とそれらを結ぶ「参詣道」が形成されました。

  世界遺産 文化遺産オンライン (nii.ac.jp)

○こういう文化庁の案内を読むと、つい笑ってしまう。幾ら何でも、それは無いだろう。第一、『紀伊山地の霊場と参詣道』などと言う文言が良くない。それは如何にも文部官僚が創作した陳腐な代物と言うしかない。日本國有史以来、『紀伊山地の霊場と参詣道』などと言う文言が登場した歴史が無いのだから。

○もっとも、文部官僚はこういう創作を得意になって喧伝しているのだろうが、偽物は良くない。日本の伝統文化をまるでご存じ無い方の創作である。まずは熊野本宮へ赴き、奥馳道を歩き、大峰山から吉野まで歩き、高野山へ参詣してみることだろう。そういう難行苦行を経験しない限り、見えるものも見えては来ない。経験に基づかない作文は良くない。

○世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の本物は、実は、日向国に存在する、次の聖地になる。

  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

○名付けて、神代三山陵と申し上げる。神代三山陵と言うくらいだから、それこそ『かみよのむかし』からそれは存在し、ここが日本の始まりなのである。日本で、世界遺産へ登録するなら、まず、第一に登録されるべきところである。誰が考えても、それが当然だし、自然だろう。

○奇しくも、世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の内実が、この神代三山陵の先坣僑位であることに、驚く。こういうものを造作した古代人の知恵に、これまた、驚く。文化庁も、少しは、日本の歴史を勉強されることを、強く要望する。世界遺産が古代人の知恵にも及ばないのでは、何とも、情けないことである。

○もっとも、こういうことを理解するには、相当な時間と労力が要求されることは言うまでも無い。そういう時間や労力を惜しんでは、文化は享受できない。本来、文化は耕すものなのだから。文化庁に向かってそういう話をするのも心苦しいが。

○判るように、日向国には神代三山陵が存在する。その神代三山陵の研究も、明治初年以降、放置されたままになっている。現在、宮内庁が管轄する神代三山陵の比定地が誤りであることは間違いない。それを証明してくれるのが神代三山陵の先坣僑位なのである。何故なら、神代三山陵と、神代三山陵の先坣僑位とは、相似形だからである。そのことは、すでに、当古代文化研究所では、確認済みである。

○そういう意味では、世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』は、何とも有り難い存在である。反面教師となって、私たちに真実を教えてくれるのだから。

○真実は強い。そのうち、こういう真実が偽物を駆逐してくれることは間違いない。それが文化であり歴史の力なのだから。そういう意味で日向国はなかなか面白い。