神代三山陵の先坣僑位 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○前回、ブログ『吉野山の正体』で、吉野山の正体が可愛山陵の先坣僑位だと言う恐ろしい話をした。「日本書紀」持統紀に拠れば、持統天皇は九年間に31回もの吉野行幸を繰り返している。吉野山の何が彼女を引き付けたのか、甚だ気になった。それが吉野山の正体を考える契機となった。

○もっとも、吉野山で、吉野山が何を意味するかを正確に理解している人は少ない。前大僧正行尊や西行法師などの時代までは、吉野山の概念ははっきりしていたようだが、すでに芭蕉の時代には、それが完全に見失われている。当古代文化研究所では、そういう検証を、次のブログで行っている。

  ・テーマ「吉野山の正体」:40個のブログ

  吉野山の正体|古代文化研究所 (ameblo.jp)

○吉野山の正体が可愛山陵の先坣僑位だと言うはことは、長い長い研究の末に案出された結論である。その話は「神代三山陵」の話から始めなくてはならない。いまどき、「神代三山陵」をご存じである方のほうが少ないのではないか。日向神話の主人公が神代三代で、その神代三代のお墓が「神代三山陵」になる。

○ただ、現在、神代三山陵とされるものには、相当、問題がある。当古代文化研究所では、そういう研究もすでに済ませている。これも話が長くなるので、次のブログを参照していただくしかない。

  ・テーマ「神代三山陵の研究」:16個のブログ

  神代三山陵の研究|古代文化研究所 (ameblo.jp)

○もっと先には、大和三山の問題が存在する。大和三山は日向国の次の山々を指す。

  ・うねびやま=霧島山(1700m)
  ・かぐやま=桜島山(1117m)
  ・みみなしやま=開聞岳(924m)

この研究にも膨大な時間と労力を費やしている。詳しくは、次のブログを参照されたい。

  ・テーマ「大和三山」:122個のブログ

  大和三山|古代文化研究所 (ameblo.jp)

○つまり、日向神話の主人公、彦火瓊々杵尊・彦火火出見尊・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊のお墓が神代三山陵である。その神代三代のお墓である神代三山陵の先坣僑位が畿内に存在すると言うことを、当古代文化研究所では、発見して、驚いた。

○もっとも、現在、宮内庁が神代三山陵として管轄しているものは、次のようになっている。

  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県薩摩川内市の新田神社
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県霧島市溝辺町麓の高屋山陵
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

○この神代三山陵の比定地自体は、明治初年に行われているが、極めて政治的配慮の色濃いものとなっていて、真実の神代三山陵からは、ほど遠いものとなっている。それで、当古代文化研究所では、神代三山陵研究の第一人者である白尾國柱の研究を継承して、神代三山陵の研究を行った。

○結果、真実の神代三山陵が次の通りであることを確信した。

  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

○その後、吉野山の正体を考えてみたら、持統天皇の祖霊信仰であることに気付いた。そうであれば、天皇家の祖霊信仰なら、神代三山陵しか考えられない。結果、吉野山が可愛山陵だと言う結論に達したわけである。そうしたら、神代三山陵の先坣僑位を全て見付けることができたわけである。

  ・吉野山=可愛山陵
  ・高野山=高屋山陵
  ・熊野本宮=吾平山陵

○当たり前のことだが、日向国の神代三山陵と畿内の神代三山陵の先坣僑位とは、全くの相似形なのである。逆に言うと、畿内の神代三山陵の先坣僑位から、日向国の真実の神代三山陵が確認される。したがって、神代三山陵の先坣僑位によって、当古代文化研究所が発見した真実の神代三山陵が本物であることが証明されたことになる。

○当古代文化研究所では、長年、そういう研究を行っている。真実の神代三山陵発見も、そうした地道な研究の成果の一つであることは言うまでも無い。大和三山の発見もそうである。また、神代三山陵の先坣僑位発見も同様である。

○日向国一宮、都農神社の宮司であった永友元夫先生の座右の銘が「継続は力なり」である。その教えを自らの座右の銘として、こういう研究を続けている。今思うと、「継続は力なり」をしみじみ実感させられる。今後も、それを信じて検証を続けたい。