○前回、ブログ『甑島の住吉神社と大帯姫神社』を書いて、甑島に於ける神功皇后の影を紹介した。同じように、現在の甑島では影が薄いものとなっているものに、三島神及び三島神社がある。今回は、その三島神及び三島神社について、触れてみたい。
○三島神及び三島神社について。まず、三島神及び三島神社がどんなものであるかが、なかなか理解されていない気がしてならない。ちなみに、ウイキペディアフリー百科事典では、次のように説明する。
三島神社
三島神社、三嶋神社、三嶌神社(みしまじんじゃ)、あるいは三島社(みしましゃ)は、
「三島」を社名とする神社。総本社は伊予の大山祇神社(大三島神社)と伊豆の三嶋大社
である。全国に400社余り存在する。
伊予の大山祇神社を総本社とする大山祇・山祇神社(全国に900社前後)と併せ、「大山祇・
三島信仰」と総称されることもある。
○これが通常の世間一般の三島神及び三島神社の認識ではないか。しかし、上記案内にあるように、三島神及び三島神社の起源が伊予の大山祇神社や伊豆の三嶋大社であることは、あり得ない話である。まるで三島神及び三島神社を理解していないと言わざるを得ない。本来、三島神及び三島神社は日向国のものである。
○第一、伊予の大山祇神社や伊豆の三嶋大社の何処に、三島神が出現したと言うのか。三島神とは大山祇神を意味する。その大山祇神の故郷が伊予国だとか伊豆国だと言う話を聞いたことが無い。確かに、大三島の大山祇神社は伊予国一宮だし、三嶋大社も伊豆国一宮ではあるけれども。
○何故か、誰もそういうふうに神様を見ない。それは何ともおかしな話である。「古事記」や「日本書紀」を読む限り、大山祇神の故郷は日向国だとするしかない。そのことを理解しない限り、三島神及び三島神社の話はできないのである。
○それにしても、日向国は広い。日向国の何処が大山祇神の故郷なのか。そこまで考えないと、三島神及び三島神社を理解することはできない。誰もそういうふうに考えない。
○当古代文化研究所では、そういう研究をしている。結果、大山祇神の故郷は鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島だとするしかない。当古代文化研究所では、これまで硫黄島を6回訪問している。
・2009年5月30日(土)
・2009年6月11日(木)
・2010年10月30日(土)・31日(日)
・2011年3月13日(日)から18日(金)
・2011年11月25日(金)から29日(火)
・2012年8月22日(水)
○ブログでも、硫黄島がどういう島であるかを丁寧に検証済みである。ここでは、その中の幾つかを案内しておきたい。
・テーマ「三島村・薪能「俊寛」」:38個のブログ
三島村・薪能「俊寛」|古代文化研究所 (ameblo.jp)
・テーマ「硫黄島」:42個のブログ
・テーマ「Camellian硫黄島」:30個のブログ
Camellian硫黄島|古代文化研究所 (ameblo.jp)
・テーマ「ツワブキの硫黄島」:33個のブログ
○日本神話で、大山祇神がどれ程偉大な神様であるか。多くの方は、ほとんど理解できていない。大山祇神は日本の国母である。だから、現在でも、日本中で斎き祀られているのである。そうでなければ、伊予国一宮や伊豆国一宮になれるはずもなかろう。
○それに、大山祇神を男神だと勘違いなさっている向きもあるから、ことわっておくけれども、大山祇神は女神である。古来、日本では、山の神が男神であった例が無い。山の神と言えば、日本では女神であるのが常識である。
○甑島から鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島は極めて近い。したがって、甑島が三島神の影響を受けていることは当たり前のことである。「上甑村郷土誌」を読むと判るのだが、嘗て、中甑の氏神は三島神社だったと言う。江石や平良もそうである。
○意外と、神様や神社にも栄枯盛衰がある。それは為政者が変わったり、宗教と言う文化が変容したりするからではないか。嘗て、日本中を席捲したのが三島神であることを留意する必要がある。そして、それは甑島でも例外ではない。
○今年、2021年7月16日に、下甑島手打の釣掛崎灯台から三島の黒島を遠望した。甑島から三島は見える距離にある。それが驚きだった。甑島はそういう航路の中に存在する。それは遣唐使船南島路と言う。その遣唐使船南島路が中国浙江省寧波まで続いていることを誰も知らない。
○そういうことを確認するために、当古代文化研究所では、何度も甑島を訪問している。それがブログ「甑島周遊」である。これまで、すでに234個ものブログを書いている。
・テーマ「甑島周遊」:234個のブログ