○ブログ『第4回:甑島周遊の旅を終えて』から、『串木野地名考』、『甑島が「コシキシマ」であることの意義』、『再度、大和地名が日向国のものであること』、『金峰神社とは何か』、『金御岳(かねのみたけ)』、『吉野水分(よしのみくまり)神社』と続けている。こうなると、次はどうしても、『住吉神社とは何か』にならざるを得ない。
○昨年は、コロナ過で、中国へも行けず、日本で過ごすしかなかった。それで、これまで、行けていないところへ、久し振りに出掛けることが出来た。「万事塞翁が馬」ではないけれども、コロナ過で、できないことがあれば、逆にできることもある。そういうものをこういう時には考えてみたいと思った次第である。
○昨年2020年7月15日、31日、8月5日と続けて、宮崎から佐土原、高鍋、西都、都農、美々津などを周回してきた。3回とも、宮崎に所用があって、空き時間があった。それで、時間が許す範囲であちこち気になるところを周回して回った。
○その時書いたブログの中から主なものを紹介すると、次のようなものになる。
・テーマ「日向国の邪馬台国」:ブログ『立磐神社』
・テーマ「日向国の邪馬台国」:ブログ『日向国一宮:都農神社』
日向国一宮:都農神社 | 古代文化研究所 (ameblo.jp)
・テーマ「日向国の邪馬台国」:ブログ『日向國式内社:江田神社』
日向國式内社:江田神社 | 古代文化研究所 (ameblo.jp)
・テーマ「日向国の邪馬台国」:ブログ『阿波岐原の住吉神社』
阿波岐原の住吉神社 | 古代文化研究所 (ameblo.jp)
・テーマ「日向国の邪馬台国」:ブログ『延喜式内社:日向二之宮・都萬神社』
延喜式内社:日向二之宮・都萬神社 | 古代文化研究所 (ameblo.jp)
○これではまるで神社参詣記そのものではないかとおっしゃるかも知れない。まさにその通りである。これに小林市細野に鎮座ましす霧島岑神社を加えたら、日向国延喜式内社の全てが揃ってしまう。気になったので、そのことについても、書いている。
・テーマ「日向国の邪馬台国」:ブログ『日向国:延喜式内社』
日向国:延喜式内社 | 古代文化研究所 (ameblo.jp)
○ただ、ここで問題とするのは、あくまで、住吉神社についてである。住吉神社と言えば、多くの人が思うのは大阪の住吉大社ではないか。ウイキペディアフリー百科事典が案内する住吉大社は、次の通り。
住吉大社
住吉大社(すみよしたいしゃ)は、大阪府大阪市住吉区住吉にある神社。式内社(名神大社)、摂津国一宮、二十二社(中七社)の1つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。全国にある住吉神社の総本社である。本殿4棟は国宝に指定されている。
○しかし、住吉神が本来、どういう神であるかについては、ウイキペディアフリー百科事典に、住吉三神項目が存在する。
住吉三神
『日本書紀』では主に底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと)、『古事記』では主に底筒之男神(そこつつのおのかみ)・中筒之男神(なかつつのおのかみ)・上筒之男神(うわつつのおのかみ)と表記される3神の総称である。住吉大神ともいうが、この場合は住吉大社にともに祀られている息長帯姫命(神功皇后)を含めることがある。
「住吉」は、元は「すみのえ」と読んだ。
○その住吉三神が誕生したのは、伊邪那岐命の禊に拠るとある。ウイキペディアフリー百科事典の住吉三神項目では、次のように説明している。
伊邪那岐命と伊邪那美命は国生みの神として大八島を生み、またさまざまな神を生んだが、伊邪那美命が火之迦具土神を生んだときに大火傷を負い、黄泉国(死の世界)に旅立った。その後、伊邪那岐命は、黄泉国から伊邪那美命を引き戻そうとするが果たせず、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」で、黄泉国の汚穢を洗い清める禊を行った。このとき、瀬の深いところで底筒之男神が、瀬の流れの中間で中筒之男神が、水表で上筒之男神が、それぞれ生まれ出たとされる。
○つまり、住吉三神が誕生したのは、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」だと言うことになる。どう考えても、住吉三神の出自は日向国だとするしかないわけである。もちろん、そのことは、「古事記」や「日本書紀」で確認されることである。
○日向国で、住吉神の故郷だと思われるところが二か所存在する。その一つが宮崎市塩路の住吉神社であり、もう一つが鹿児島県曽於市末吉の住吉神社になる。宮崎市塩路の住吉神社がどんなところか、あるいはまた、鹿児島県曽於市末吉の住吉神社がどんなところか。それを知らないで話はできない。
○当古代文化研究所では、当然、そういうふうに考え、宮崎市塩路の住吉神社と鹿児島県曽於市末吉の住吉神社の両方に参詣済みである。そういう話をしたいのだが、字数がすでに2000字を超えてしまった。話は次回に繋げるしかない。