神武東征物語 | 古代文化研究所

古代文化研究所

古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○2020年7月15日に、随分久し振りに美々津を訪れた。町の各所に「美々津街並みご案内書(GUIDE MAP)」入れの箱が設置してあって、

      國選定重要伝統的建造物群保存地区

      宮崎県日向市

      美々津町歩き

のパンフレットが入っていた。

○表は美々津の街並み地図で、裏には「神話伝説と廻船問屋の繁栄の歴史」の説明書きが掲載されていた。前回は、その中の『美々津の歴史』を検証してみた。続けて、今回は、「神武東征物語」を見てみたい。パンフレットには次のような案内があった。

      神話伝説と廻船問屋の繁栄の歴史

      神武東征物語

   美々津は、日向神話「神武東征説神話お舟出の地」として知られています。神倭伊波礼毘古命(カ

  ムヤマトイワレヒコノミコト)、のちの初代・神武天皇は「ここは国を治めるには西へ寄りすぎている。東

  方に青山をめぐらした美しい国があって、すでに饒速日命(ニギハヤヒノミコト)という者が国を拓きつ

  つあるとか。そこへ行って、まつりごとをするにふさわしい都をつくりましょう。のちの日本書紀にも描か

  れる「神武東征」。歴史の基礎は、日向市美々津から始まりました。

   お舟出は旧暦の8月2日の予定でしたが風の都合で舟出が急きょ変更になり、あわてた人々はお

  祝いに用意していた材料を全部一緒に搗(つ)いて急ごしらえの団子を作り、天皇に差し上げました。

  そのときの「つきいれ団子」(お舟出だんご)は今も美々津の名物となっています。

   早朝のお見送りのため寝入っている各家の戸をたたき、「おきよ」「おきよ」(起きよ、起きよ)と人々を

  起こして廻りました。

   この故事にちなみ、旧暦8月1日には「おきよ祭り」が行われます。

 

○このパンフレットの、「神話伝説と廻船問屋の繁栄の歴史」は、『美々津の歴史』も『神武東征物語』も、なかなかよくできている。丁寧な検証がなされていると感心して読んだ。

○ただ、『神武東征物語』に関して、言わせていただくと、いろいろ問題がある。当古代文化研究所で調べたところ、神武東征のご出航の地は他にも存在する。それは鹿児島の福山であり、東串良である。

○このことについて、当古代文化研究所では、すでに詳細な検証を加えている。

  ・テーマ「邪馬台国その後」:ブログ『神武東征ーお船出の地ー序章』

  https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12519938078.html?frm=theme

  ・テーマ「邪馬台国その後」:ブログ『神武東征ーお船出の地ー美々津』

  https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12519938089.html?frm=theme

  ・テーマ「邪馬台国その後」:ブログ『神武東征ーお船出の地ー宮浦神社』

  https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12519938097.html?frm=theme

  ・テーマ「邪馬台国その後」:ブログ『神武東征ーお船出の地ー東串良町柏原』

  https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12519938103.html?frm=theme

  ・テーマ「邪馬台国その後」:ブログ『神武東征お船出の地はどこか』

  https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12519938110.html?frm=theme

○神武東征お船出の地はどこか? それを確認するには、神武天皇の出生を探らなくてはなるまい。神武東征するまで、神武天皇は何処で生活していたか。それが無くては話にもならない。美々津の話には、そういうものが一切無い。不思議なことである。

○神倭伊波礼毘古命の父は彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と申し上げ、祖父は彦火火出見尊、曽祖父は彦火瓊々杵尊である。この三者を神代三代と称する。その神代三代の御陵を神代三山陵と申し上げる。どう考えたところで、神代三山陵の所在地が神武天皇の故地である。

○神武東征お船出の地はどこか? 結果、誰が考えても、神武東征お船出の地は肝属川の河口、東串良町柏原とするしかない。そういう検証を済ませて、始めて、お船出の地の話はできる。