美々津の歴史 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○2020年7月15日に、随分久し振りに美々津を訪れた。町の各所に「美々津街並みご案内書(GUIDE MAP)」入れの箱が設置してあって、

      國選定重要伝統的建造物群保存地区

      宮崎県日向市

      美々津町歩き

のパンフレットが入っていた。

○表は美々津の街並み地図で、裏には「神話伝説と廻船問屋の繁栄の歴史」の説明書きが掲載されていた。今回は、その中の『美々津の歴史』を検証してみたい。パンフレットには次のような案内があった。

      神話伝説と廻船問屋の繁栄の歴史

      美々津の歴史

   美々津は古くから海の交易の拠点として歴史を刻み、町の背後にある遺跡からは、畿内、瀬戸内様

  式の弥生土器が出土しています。このことから美々津が相当古い時代から該地と交流があったことを

  裏付けています。

   美々津が、港町として成立するのは江戸時代初期の元禄の頃(1688~1703)からで、当時は高

  鍋藩領に属し、藩主秋月氏の支配の下、重要な港町となっていました。港近くには津口番所や藩蔵

  が建てられ、対岸の幸脇地区や上流の余瀬地区にも番所が置かれ、城下から代官や蔵役、番人など

  が派遣されていました。

   美々津を経済の面から支えていたのは、千石船を所有する廻船業者たちで、彼らは備後屋、明石

  屋、播磨屋、泉屋などと言った瀬戸内や畿内の地名を屋号とし、耳川上流で生産された材木や木炭

  などを大阪方面に向け出荷していました。その帰路、関西方面の特産品や美術工芸品を持ち帰るこ

  とが多く、地域と文化交流の担い手としての一面も有していました。彼らの活躍が、やがて明治から

  大正時代にかけて「美々津千軒」と言われるほどの繁栄をもたらすことになります。

   しかし、潮や風の影響を受けやすい帆船を使った古い航海方法に頼りきっていたことや、経営その

  ものが江戸時代の旧態から脱しきれていなかったこともあり、大正12年の国鉄日豊本線開通を契機

  に廻船業は衰退していくこととなりました。主幹産業を失った美々津は、近郊の商業地域としての命

  脈は保ってきましたが、高度成長期における諸産業の飛躍などに伴い、現在では小さな港町となって

  います。

○ここにあるのは、美々津の江戸時代からの歴史を振り返っての話となっている。要するに、美々津が高鍋藩の御用港として繁栄した歴史と言うことになる。それは大正12年(1923年)ころまで続いたとある。そうであれば、美々津の港町としての繁栄は西暦1700年ころから1900年ころまでの、およそ200年続いたと言うことになる。