天然居士米山保三郎墓銘:其の三 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○ブログ『「坊っちゃん」の清の墓』から『天然居士米山保三郎墓銘:其の一』、『天然居士米山保三郎墓銘:其の二』と続けている。2018年10月2日に、本駒込の養源寺へ安井息軒先生のお墓参りに出掛けた。その際、米山保三郎墓銘が息軒先生のお墓の正面にあった。

○その前に、何度か、安井息軒先生のお墓参りには出掛けている。2008年8月28日に訪れた時に、次のブログを書いている。

  ・テーマ「文学散歩」:『「坊ちゃん」清の墓』

  https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12519938573.html?frm=theme

  ・テーマ「文学散歩」:天然居士米山保三郎墓銘』

  https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12519938591.html?frm=theme

○この米山保三郎墓銘を読むことを希求しながら、なかなかその機会が無かった。さいわい、2008年8月28日に訪れた際に、入念に多くの写真を撮って来た。それで何とか読むことができた。それが次のブログになる。

  ・テーマ「文学散歩」:『米山保三郎墓銘

  https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12519982813.html?frm=theme

○このブログを読んでいただくと判るのだが、米山保三郎墓銘』を書いたのは、珍野苦沙弥ではなくて、重野安繹の書いたものであることが判った。つまり、小説「吾輩は猫である」に書いてあることは、漱石の完全なフィクションであることが判る。

○上記のブログで丁寧に検証済みだが、米山保三郎墓銘は正四位勲四等文學博士の重野安繹のものしたもので、何とも堂々とした墓銘となっている。小説「吾輩は猫である」が言うような、

  天然居士は空間を研究し、論語を読み、焼芋を食い、鼻汁を垂らす人である

と言う、とんでもない表現など、全くない。

重野安繹がものした米山保三郎墓銘に拠れば、米山保三郎は剛直の人だったと言う。その性について、次のように述べている。

  保三郎の性は、剛直にして、物に抅わらずして、具さに修業す。
  氣を専にし、思ひは深く、寝饋は倶に所持する有るを廢す。
  死の拄ぶと雖も、夙に和漢の學を攻め、旁ら佛典に通ず。
  其の中學に在るや、英文を研鑽し、尋ねて獨り佛學を渉獵し、又算數に精し。
  平素、倫理道徳に心を用ひ、常に魯論を懐ひて起居動作するに身を離れず。
  母に事ふる孝に務め、其の心を慰籍し、日夕膝下に至る。
  其の時に談じて、學ぶを以て樂しみと為す。
  曽て鎌倉に游び、洪川和尚に参ず。室に悟を毋氏に歸勧すと偕に禅理を講ずる所有り。
  故に其の没するや、毋氏當に哀痛し極みを問ふべきに、夷然として不動心、人以て之を練修と為す。
  効を云ふに常に人に語りて曰はく、學は須からく根本を向上させ、力を著し、去るを究め、
  来るを究め、寝ら浮華輕俳を悪むべしと。

○これが漱石の尊敬する米山保三郎なのである。残念ながら、米山保三郎はわずか29歳の若さで亡くなった。それを哀悼するのが米山保三郎墓銘であり、小説「吾輩は猫である」なのである。

米山保三郎が亡くなったのは、明治三十年(1897年)五月二十九日だという。今から123年も昔の話である。そんな米山保三郎を偲ぶことができるのも、米山保三郎墓銘や小説「吾輩は猫である」のお陰であることは言うまでもない。

○その両者を読む楽しみが文学である。その両者の差異を楽しむのが文学である。なかなか文学は楽しい。