僧月照墓 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○南洲寺で、有名なのが僧月照墓である。南洲寺の山門の右手に、鹿児島市が建てた「僧月照墓」の案内板を、道路からも見ることができる。それには、次のようにあった。

      僧月照墓

      革新的な上人

      ~尊皇討幕運動に殉じた宗教人~

   「月照さあ、そいなら………」西郷が目くばせをすると、月照は静かに頷きました。1858年(安政5)

  11月16日の明け方近く、三船の沖でのことです。「バッシャーン!」西郷と月照は抱き合って錦江湾に

  身を投じました。

   政治運動をしていた西郷と月照は、大老井伊直弼による志士の弾圧(安政の大獄)で、幕府の罪人

  として追われる身となったのです。そして薩摩へ逃亡してきたのですが、島津斉彬亡き後の藩内はと

  ても罪人をかくまうような状態ではありませんでした。藩は西郷に、月照を日向に送るように命じまし

  た。

   当時薩摩では、日向へ送る者を「永送り」といって、国境で斬り捨てる習わしでした。それを十分承

  知した上での入水だったのでしょう。

   結局、月照は不帰の客となり、西郷は息を吹き返しました。西郷の懐紙から、月照の時世の歌がみ

  つかりました。

      大君のためにはなにかをしからん

          薩摩の瀬戸に身は沈むとも

南洲寺の山門のすぐ右手に僧月照墓は存在した。もともとは西郷家の墓地にあったものを、ここに改葬したものと伝えられている。