○前回、「三国名勝図会」巻之六にある松峯山無量壽院浄光明寺の記事を紹介したが、長いので途中で中断した。今回はその続きになる。「三国名勝図会」など、なかなか読んで貰えないので、ここに案内する。また、書くことで、自分にも勉強になる。
松峯山無量壽院浄光明寺(府城の西北)~後半部~
爾來故事となり藤澤山遊行上人廻國するや、當寺に來りて化益をなせり。弘安七年、公御先考道
佛公の十三回忌に當りて、當寺を再興し、追薦を修せらる。(下文に記する古鐘銘は此時に造れり。)
寛文七年、七月、藤澤遊行第四十世木端上人より、傘と半畳と輿との三種を許す。正徳五年八月、
遊行第四十九世一法上人総金襴袈裟を許す。世々是を用ゆ。享保二年、四月八日、當寺火災に羅
る。浄國公殿宇を再興し給ひ、宏麗舊に倍す。又住僧壽門を上京参内せしむ。同十四年、八月、其
阿上人の號を勅許ありて、綸旨を下さる。同十七年十一月廿一日、遊行第五十世快存上人、當寺を
永足下職に轉任す。快存上人、當寺住持其阿上人壽門、(當寺第二十世。)に發句を贈る。其句に曰
寺の名はいよいよ高し雪の山
延享三年、丙寅、十二月、遊行第五十一世賦存上人、壽門の後住廊心、(當寺第二十一世。)に法
阿上人の號を授けて、永く相傳せしむ。(法阿は宗門阿號の上首なり。甲州蓮寺を除くの外、其例な
しと云。法阿の下に、其阿、彌阿、覺阿、伹阿の階あり。)寺禄四百余石あり。
當寺は松峰山上の東南に在て、石磴を登ること二町餘なり。楼閣臺殿は遥かに雲際の聳
へて青松翠を交へ、鐘聲経梵は遠く烟外に傳へて暁風響きを送る。寺地高敞にして、南海に俯
し、城市の佳麗なる、海山の縹緲なる、遠近數十里の景勝を一眸の下に収め盡す。近きを下望す
るに、城市の人烟繁簇して、雑沓鱗次し、朱楼粉壁、海岸に接す。樹色點綴して、千家は小く、煙中
に隠見せり。道路は縦横に通して棋罫に類し、人馬來往の遠態は米人豆馬にも譬ふべし。遠きをい
へば、薩隅二州の山、東西対し峙ち、裏海其間に瀦へ、櫻華峰突兀として其海中に聳へ、畳嶂、連
山其後に映帯し、藍を染め、翠を滴し、争ひ來て媚を献ず。風帆漁船は煙雲渺茫の中に出没去来
し、海岸には危檣 巨船を連ね繋げ、且琉球國の船舶來り泊する者、數十艘ありて、特に奇観たり。又
四時の景の如き、秋夕の月は南海の天に鏡を開き、檻に倚て賞ずれば暁を忘れ、冬朝の雪は櫻華
峰に玉を磨き、簾を捲て看るに寒をしらず。暗夜の漁火は、龍燈の供すると疑ひ、春日の櫻花は、天
華の下り敷かと怪めり。至若ならず、朝暉夕陽、風光萬状ありて、其勝筆端の得て盡すべきに非ず。
誠に府下の佳眺は、此地等を以て翹楚と称すべし。
○まあ、何と言う、名文であることか。今時、こういう美文が綴れる人と言うのは居まい。これが当時の美学であったことを忘れてはなるまい。これを読んだだけでも、大いなる価値があると言うものである。日本のある時期の文章の典型がここにある。何度読み返しても、面白い。