「三国名勝図会」の浄光明寺 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

2020年3月4日、南洲公園の西郷さんのお墓参りに出掛けた。参道脇に松峰山浄光明寺があった。もともと、南洲公園全体が松峰山浄光明寺の境内だった。それが薩英戦争や廃仏毀釈で塵灰に帰していた。それで明治十年(一八七七)、西郷隆盛以下薩軍将兵がこの地に埋葬され、南洲墓地となった。

○鹿児島の廃仏毀釈には、凄まじいものがある。それは現在でも全く復元されていない。多くの寺が放置されているか、別の建物に変容している。南洲墓地もそういうものの一つである。

○「三国名勝図会」巻之六には、往時の松峯山無量壽院浄光明寺が、次のように記録されている。

      松峯山無量壽院浄光明寺(府城の西北)

   坂本村にあり。相州藤澤山清浄光寺の末にして、時衆宗なり。山門には松峯山の額を標す。寛陽

  公の御親筆なり。本尊阿弥陀如来(立像長三尺一寸、安阿彌作、夾侍観音、勢至、共に長二尺、同

  作)開山宣阿説誠上人(建保元年、癸酉五月三日遷化)當寺は、時衆般舟三昧修行の道場にて、薩

  隅日三州の小本寺たり。藤澤山遊行上人廻國の時は、當寺に日を重ねて滞留し、念佛禮讃有縁化

  益をなせり。當寺の記録等に拠るに、時衆宗に、一遍上人を祖とするあり。是藤澤山遊行派なり。宣

  阿上人は其以前に立る。古来の時衆宗と見えたり。初め文治二年、得佛公薩隅日の地に封を受て國

  に就き給ひし時、鎌倉より宣阿上人を従へて來り、(寺傳に宣阿上人は、比企判官能員の第二子と

  す。然らば得佛公の母堂、丹後局の姪なり。鎌倉浄光明寺の住持なりしといふ。鎌倉志を按ずる

  に、鎌倉浄光明寺は、建長三年、辛亥、平長時建立と記す。建長は、宣阿既に本藩に來りしより、数

  十年の後に在り。宣阿其寺に住持といふに合はず。蓋し其建立とは、創建にはあらざるべし。)當寺

  を創建して、これに居らしむ。其後七八十年を経、得佛公の嫡孫、道忍公の時、建治三年、丁丑、九

  月十九日、一遍上人、(伊豫州河野七郎通廣の子にて、正應二年、己丑、八月廿三日、播州真光

  寺に寂す。年五十一。)大隅州國分正八幡宮に参籠す。時に八幡神寶殿の金扉を開き、尊容を現

  して歌を示す。其歌に曰、十詞に南無阿彌陀佛と唱ふればなむあみだぶに生まれこそすれ。是彼宗

  十念相傳の権輿なりとぞ。既にして一遍上人當寺へ至る。公一遍上人に帰依す。此時當寺第三代の

  住持覺阿上人了性、其宗旨を受く。是より當寺一遍派の時衆宗となる。(凡そ本朝闔國、一遍上人

  以前時衆宗と称する寺院は、河内古河寺、信州善光寺、同州時衆寺、泉州照林寺、同州金光寺、鎌

  倉向福寺、光觸寺、摂州真光寺、薩州浄光明寺等なり。一遍上人時宗建立以後、一遍派に帰する處

  は、鎌倉両寺、摂州真光寺、薩州浄光明寺等なりといふ。)

○記事はまだまだ続くのだが、字数制限の関係から、続きは次回に。