中西進が語る日向神話:其の五十一 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○前回、卑弥呼は『卑弥呼(ひむか)』であり、『日向(ひむか)』である話をした。卑弥呼の鬼道が太陽崇拝であれば、納得できる話である。「三国志」の編者、陳壽は、蜀国の成都で仏教がどんなものであるかを目にしているはずである。

○当古代文化研究所では、これまで3回成都を訪問している。同じく陳壽の故郷である南充にも2015年5月18日に訪れている。南充は嘉陵江の賜物である。意外と成都にも重慶にも西安にも近いのが南充である。そんなことを南充を訪れて初めて知った。

○また、陳壽には素晴らしい先達が居たことも見逃してはなるまい。それが譙周であり、司馬相如である。そういうことも南充を訪問して改めて納得できたことであった。私たちの存在は時間と空間の只中にあるのだから。

○陳壽が数奇な運命を辿ったことも事実である。陳壽は三十歳にして、祖国蜀国を失っている。蜀国の無血開城を決断したのが、その師、譙周である。そのせいで、譙周の評判はあまり芳しくは無い。しかし、そのお陰で、蜀国の文化は無事残った。

○ある意味、陳壽が「三国志」を編纂したことに拠って、蜀国は歴史に名を刻んでいるとも言えよう。三国時代と言う時代は、ほとんど無いと言って良い程、極めて僅かな時間に過ぎない。陳壽が「三国志」を編纂したお陰で蜀国が歴史に名を刻むことができた。誰もそんなふうに「三国志」を読んでくれない。なかなか史書を読むと言う作業も難しい。

「三国志」巻三十『魏書』、『烏丸鮮卑東夷傳第三十』の倭傳を陳壽がどういう思いで書いたか。そういうふうに陳壽を思い遣る人が誰も居ないのが寂しい。また、そういうことは、陳壽の故郷くらいは訪れないと想像だにできない。嘉陵江の畔に立って、そういうことを思った。

倭傳には、何故か、陳壽のそういう特別の思い入れがある。そのことを表した表現が東夷傳序文の中にある。それには、次のようにある。

  【原文】

  雖夷狄之邦,而俎豆之象存。中國失禮,求之四夷,猶信。

  【書き下し文】

  夷狄の邦と雖も、俎豆の象存す。中國禮を失し、之を四夷に求めるは、猶ほ信なり。

◎日向国はどんな国か。それは『ひむか』の国だと言うしかない。また、『卑弥呼(ひむか)』の国だとするしかないのである。倭傳には、また、その国を邪馬台国とも記録する。

◎倭国は夷狄の国だが、礼法を守っている国だと陳壽は称賛して止まない。すでに中国が失っている礼法を夷狄の国である倭国が保持していると言う。嘘みたいな話だが、本当のことだとも言う。あれ程、気位の高い中国人にあっては、稀有の出来事とするしかない。中国の正史で、これ程異民族を畏敬する表現を見たことがない。

◎それが陳壽の倭国に対する評価である。そういうことを知らないで読まれる「魏志倭人伝」が真実を伝えることはあり得ない。誰もそういうふうに「魏志倭人伝」を読まない。正確には読めないのだけれども。