○大隅国には肝坏郡、囎唹郡、大隅郡、姶羅郡の四郡が存在した。そのうち、肝坏郡と姶羅郡の所在地がはっきりしない。そういう話を前回した。しかし、大隅国には、姶良川が流れ、大姶良川も存在する。これらが姶羅郡と無関係であると考える方に無理がある。
○また、大隅国には、肝属川が流れ、肝属平野が存在し、肝属山地もある。ある意味、肝属川が流れる肝属平野が大隅国の中心であったことは間違いない。姶羅郡が姶良川や大姶良川流域を中心だとすれば、肝坏郡は肝属川の下流域と内之浦などの大隅半島南部であったと推測される。
○それでも、きもつき地名とあひら地名との間には混乱が生じていることは間違いない。そう考えると、きもつき地名とあひら地名は、もともとは一緒では無かったかと思えてくる。それが枕詞『かもつきのあひら』である。
○枕詞『かもつきのあひら』は、文献に出ているものでは無い。吾平山陵の状況を見聞した結果、思い付いたものである。枕詞『かもつきのあひら』が成立すると、全てのことがきれいに説明できる。そういう意味で、枕詞『かもつきのあひら』の存在を考えるしかないわけである。
○肝属地名や吾平地名を考えると、枕詞『かもつきのあひら』が一番説得力がある。そうでない限り、肝属地名や吾平地名は説明できない。それだけではなくて、枕詞『かもつきのあひら』は様々なことを、私たちに教えてくれる。
○例えば、現在の神社の様式がそうである。鳥居が建って、その鳥居をくぐると、通常、参詣者は玉砂利の参道を歩いて神社へお参りする。神社の手前には禊の場が存在する。もともとは水場だったものが、簡素化されて御手洗となっている。
○そういうものが何処から発生して日本中に広まったか。そういうことを教えてくれるのが枕詞『かもつきのあひら』である。もともと、此処は河原であり、玉砂利は当たり前のことである。川の手前で禊をし、神社へお参りするのは、こういう河合信仰から始まったとするしかない。
○鳥居も同様である。鴨神では鳥は神の使いである。たくさんの鳥が集まるところに、神社への参詣口が存在した。もっとも、鳥は常時居たわけではない。冬の始めに鳥はやって来て、春になると、鳥たちは帰って行ったことが判る。
○それを教えてくれるのが「神無月」である。岩波古語辞典には、次のように説明する。
かみなづき【神無月】
陰暦十月の称。中世の俗説に、十月には諸国の神神が出雲大社に集まって不在となるからという。
○なかなか面白い説だが、「かみなづき」は、もともと「神無月」ではない。詳しい話をしたいのだが、字数制限が気になってきた。あとは次回に。