枕詞「天降付く」が教えること:其一百十四 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○これまで、内之浦三岳とされる、国見山・黒尊岳・甫与志岳を縦走したのは、3回になる。最初は2008年1月4日で、この時は国見峠から甫与志岳までを往復した。朝の7時30分に国見峠を出発し、黒尊岳を経て、11時30分に甫与志岳の山頂に立った。国見峠から甫与志岳まで4時間を要したことになる。

○ただし、この時、大変だったのは、それから先のことだった。甫与志岳から、再び、黒尊岳を経て、国見峠まで引き返さなくてはならなかった。国見峠に車を置いていたからである。

国見峠に帰り付いたのは、午後5時30分ころだった。この日、肝属山地を、朝の7時30分から午後5時30分まで徘徊したことになる。全行程は10時間にも及ぶものであった。

○この時、国見山に登れなかったことが気になって、1月19日に、再度国見峠まで行き、国見山に登って来た。その時の様子については、以下のブログに書いている。

  ・テーマ「神代三山陵の研究」:ブログ『神代三山陵の研究捕逸③』

  https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12519937681.html?frm=theme

前々回、2016年の肝付町合併10周年記念「三岳まいり」』について述べ、前回は引き続き、2017年の肝付町合併10周年記念「三岳まいり」』について述べた。2008年と2016年、2017年と、合計3回、内之浦三岳参りを行ったわけである。

○このように、何度か、内之浦三岳参りを繰り返すことに拠って、本来、内之浦三岳参りがどのようなものであったかが、初めて見えて来る。内之浦三岳参り自体が、なかなかの難行事であるが、それを繰り返さない限り、その実体を見ることはできない気がする。

○もっと凄いのは、白尾國柱の「麑藩名勝考」が内之浦三岳参りを、次のように記録していることである。

      黒園嶽(同郷北方村國見嶽の午未方一里余に在り。)

   土俗相傳て、火々出見尊遊行玉ひし所也と云ふ。是に一神石山上に屹立す。高壹間三尺餘。圍壹

  間三尺餘。街道より南に丁る。奇しき巌にて、石の下に火々出見尊を斎ひ祭る。毎年四月三日を以

  て祭事あり。諸人群詣するの例とす。凡そ國見・母養子・黒園を内浦の三嶽と称ふ。

○真実の神代三山陵は何処にどのように存在するのか。改めて、そのことを振り返る時、もっとも信頼の於けるのは、吾平山陵ではないか。諸条件を勘案した場合、鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵で、吾平山陵は動かない。そこから、高屋山陵や可愛山陵の比定地を考える必要がある。

○そう考えた場合、白尾國柱が国見山を高屋山陵に比定していることは、注目に値する。何故なら、吾平山陵から国見山までは、直線距離で10㎞ほどしかない。したがって、親子関係にある彦火火出見尊と彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵としては、納得できる距離感である。

国見山が彦火火出見尊の御陵である高屋山陵だとすれば、残りは、彦火瓊々杵尊の御陵である可愛山陵だけとなる。当然、これも、この近辺に存在すると考えた方が自然だろう。それに、彦火瓊々杵尊は天孫降臨の尊であるわけだから、その御陵より崇高なところはあり得ない。

○そう考えると、肝属山地の最高峰が可愛山陵だとすべきである。それが甫与志岳(967m)である。結果、真実の神代三山陵は、次のようになる。

  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵