神代三山陵の先坣僑位 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○真実の神代三山陵発見は当古代文化研究所の研究成果の一つであるが、加えて、神代三山陵の先坣僑位を見付けたこともまた、当古代文化研究所の成果である。第一、先坣僑位と言う言葉自体をご存じ無い方が多いのではないか。

○先坣僑位と言うのは、異国の地に移った者が、その祖霊を祀る為に建てた碑や堂を意味する。そういうものが存在すること自体を私も知らなかった。それを知ったのは、宮崎県日南市飫肥板敷にある日向安国寺墓地に、安井滄洲先生のお墓を求めた時のことである。

○日向安国寺墓地は、すでに寺を失っている。現在、墓地の隣にある長久寺の柳田耕雲先生の奥さんが老齢にもかかわらず、「なかなかわかりにくいですよ」とおっしゃって、ご丁寧に安井滄洲先生のお墓まで案内していただいた記憶がある。

○安井滄洲先生の墓碑銘は、なかなか立派なもので、日向安国寺墓地でも、もっとも奥に建っていた。だから、前回訪れた際には、見付けることができなかった。柳田耕雲先生の奥様のお陰で、ようやく辿り着くことができた。

○立派な安井滄洲先生の墓碑銘の隣には、小さな墓石が二つ並んで建っていた。同じ敷地内であるから、滄洲先生所縁のお墓だろうと思い、見て見た。しかし、相当苔生していて、文字を読み取ることができない。それで、丁寧に掃除したところ、安井滄洲先生の墓碑銘の隣が安井氏先坣僑位で、もう一つが知幻童子墓だった。

○知幻童子とは、息軒先生の二女三保のことである。天保八酉六月二十日に享年六歳で亡くなっている。知幻童子墓については、次のブログに書いている。
  ・書庫「鹿児島を彩る人々」:ブログ『知幻童子墓』
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/19475447.html

○安井氏先坣僑位については、次のブログに書いている。
  ・書庫「鹿児島を彩る人々」:ブログ『安井氏先坣僑位』
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/19422847.html

●神代三山陵の先坣僑位は、実に意外なところから出現して驚いた。「日本書紀」最後は巻第三十で、高天原廣野姫天皇(たかまのはらひろのひめすめらみこと)の記事が見える。高天原廣野姫天皇の諡号は持統天皇と言い、それが一般的であるので、持統天皇で話を進めたい。

●「日本書紀」巻第三十、持統天皇紀で、持統天皇はその在任中の九年間に、31回もの吉野御幸を繰り返している。これは尋常な数字ではない。何がそれ程、持統天皇を吉野に惹き付けたのか。そういうことを書いたものを見たことがない。

●余程の理由があって、持統天皇が吉野御幸を繰り返したことは間違いない。以前、当古代文化研究所では、そういう研究を行った。ブログでは、それを『吉野山の正体』と題して、案内している。
  ・書庫「吉野山の正体」:40個のブログ
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/389714.html?m=l&p=1

●つまるところ、吉野山の正体は、天孫降臨の尊である、彦火瓊々杵尊の御陵、可愛山陵の先坣僑位であることが判って、驚いた。だから、持統天皇の吉野御幸は、祖霊信仰に基づくものであることが判った。何とも、凄まじい話である。

●もっとも、古代が宗教の時代であることを考えれば、ある意味、当たり前の話である。安井滄洲先生だって、江戸末期に安井氏先坣僑位を建てているくらいなのだから。

◎可愛山陵の先坣僑位が存在するのであれば、当然、高屋山陵や吾平山陵の先坣僑位も存在するに違いない。そう考えるのが自然だろう。そう思って、続けて高屋山陵や吾平山陵の先坣僑位探索を行った。

◎高屋山陵の先坣僑位は、すぐに見付かった。それが高野山である。高野山と言えば、誰でも空海を思い浮かべるし、真言宗の総本山である金剛峯寺の所在地だと考える。しかし、弘仁7年(816年)に、空海が高野山を開山する以前から、高野山はすでに聖地であったことは、行基(668~749)が、
  山鳥のほろほろとなく声きけば父かとぞおもふ母かとぞおもふ
と詠じたのが高野山だとされていることからも、明らかだろう。

◎高屋山陵を音読すれば、容易に高野山が出て来る。それに、吉野山から高野山は近い。そのことは、当古代文化研究所では、2008年3月に吉野山から高野山を訪れ、確認していることである。吉野山蔵王堂から高野山金剛峯寺までは、直線距離で30劼曚匹靴ない。

◎問題は、吾平山陵の先坣僑位である。紀伊山地付近で、吾平山陵の先坣僑位に該当するようなところは、何処にも存在しない。やはり、神代三山陵の先坣僑位など、妄想であったかと思ったくらいである。

◎ところが、よくよく考えると、吾平山陵自体に問題があることが問題解決の契機となった。吾平山陵は吾平山上陵と言いながら、山上陵ではないのである。そのことは、鹿児島県鹿屋市吾平町上名に存在する吾平山陵へ参拝した者でなければ、なかなか理解できない。

◎鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵へお参りすると、よく判るのだが、吾平山陵が存在するのは、河合の石原となっている。その奥に洞窟が存在し、そこが吾平山陵だとされるところである。現在は、吾平川の手前までしか行くことはできない。

◎つまり、吾平山陵へは、四の渡しと言う橋を渡って、次に三の渡し、二の渡しと渡って、山陵前広場まで行く。その山陵前広場から吾平川を挟んで遥拝するのが吾平山陵である。吾平川には一の渡しが架かっているけれども、参詣者が行けるのは山陵前広場までである。

◎つまり、吾平山陵の先坣僑位は、吉野山や高野山近辺で、河原をご神体として斎き祀っているところを探せば良いことが判る。それなら、どう考えても熊野本宮だろう。それが行き着いた結論だった。

◎結果、神代三山陵の先坣僑位は、次のようになる。
  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=吉野山
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=高野山
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=熊野本宮

◎それを、真実の神代三山陵と見比べていただくと、よく判る。
  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦の甫与志岳
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦の高屋山
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

◎判るように、真実の神代三山陵は、きれいな三角形を描いている。それは可愛山陵を頂点に、高屋山陵から吾平山陵と続く。それが神代三山陵の先坣僑位も全く相似形であることに驚く。それは吉野山を頂点に、高野山から熊野本宮と続いている。

◎ただ、違うのは、真実の神代三山陵が一辺6辧Γ隠悪辧Γ鍬劼噺世三角形なのに対し、神代三山陵の先坣僑位の方は、一辺が30辧Γ苅記辧Γ僑悪劼罰搬臉長発展していることである。それだけ、天皇家の祖霊信仰が凄まじかったと言うことであろう。

◎現在、宮内庁では、神代三山陵を次のように比定している。
  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県薩摩川内市の新田神社
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県霧島市溝辺町麓の高屋山陵
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

◎これが完全な誤りであることは、神代三山陵の先坣僑位が証明してくれる。何とも有難いものを古代人が造作していることに、ただ感謝するしかない。宮内庁は、直ちに、改める必要がある。

◎逆に言うと、神代三山陵の先坣僑位が真実の神代三山陵がどういうものであるかを教えてくれる。それが神代三山陵の先坣僑位発見の功績の一つとなっている。

◎神代のことが二十一世紀の現代でも証明できる。それが神代三山陵の先坣僑位のお陰であることは言うまでもない。これが文化の凄さであり、有難さでもある。文化を耕すと言うことは、そういうことである。