邪馬台国は何処か | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○前回、邪馬台国三山の話を書いた。邪馬台国三山とは、どんな山か。それは、次のような山々である。
  ・うねびやま=霧島山(1700叩
  ・あめのかぐやま=桜島山(1117叩
  ・みみなしやま=開聞岳(924)

○奈良県橿原市には、大和三山が存在する。
  畝傍山(199.2m)
  香具山(152.4m)
  耳成山(139.7m)

○これまで、大和三山には7回登っている。
  第一回  平成4年3月28日
  第二回  平成15年8月11日
  第三回  平成17年5月10日
  第四回  平成21年3月29日
  第五回  平成22年4月3日
  第六回  平成23年5月3日
  第七回  平成29年9月5日

○したがって、誰よりも、大和三山については理解しているつもりである。奈良県橿原市で、畝傍山が何故、「うねびやま」と言う名であるかを説明することは難しい。しかし、日向國であれば、それは簡単にできる。

○同じように、香具山の「かぐやま」と言う名を奈良県橿原市で説明できる人は居ない。まして、それは「あまのかぐやま」であっては、尚更のことである。しかし、それもまた、日向國では、容易に説明できる。

○これで、もう十分なのだが、おまけに耳成山の「みみなしやま」を考えると、奈良県橿原市では、みみなしとくちなしを語呂合わせで案内するなど、信じられない話が、実際まことしやかに案内されているのを見ると、気の毒でならない。そんな無理なこじつけをしたところで、何も解決しない。

○日向國では、「みみなしやま」は燦然と輝いて存在していて、実に美しい。別名、薩摩富士とも称賛されている。もともと「みみなしやま」は境界の山を意味する。「みみなしやま」は海と陸地とのはざまに位置する。だから、「みみなしやま」と呼ばれた。

○その「みみなしやま」には、枕詞が存在する。それが『ひらきき』である。だから、正確には、「ひらききのみみなしやま」と申し上げる。漢字を当てると「枚聞」となるし、「開聞」ともなる。それを音読したのが「かいもんだけ」である。

○その証拠に、開聞岳を遥拝する神社を枚聞神社と言う。枚聞神社は「ひらききじんじゃ」と言って、薩摩国一宮の由緒正しい神社である。だから、枚聞神社のご神体が開聞岳であることは、間違いない。

○ついでに、かぐやまも済ませておくと、かぐやまが火の山の意であることはかぐやひめが証明してくれる。かぐやひめは光り輝いていたからかぐやひめと呼ばれた。つまり、「かぐ」とは「光り輝く、燃える」意であることが判る。だから、かぐやまとは火を噴く山の意である。

○香具山は畝傍山や耳成山と違って、「あまのかぐやま」と呼称される。それは香具山が海に存在するからである。そのことは天橋立(あまのはしだて)が海に存在するのと同じである。日向國で、火を噴く山で、海に存在する山と言えば、桜島しかない。

○現在、桜島は鹿児島県鹿児島市に存在する。その「かごしま」そのものが「かぐしま」なのである。つまり、鹿児島とは、桜島の謂いだと言うことが判る。鹿の子とは、何の関係も無い。

○最後に、うねびやまである。うねびやまはうねっているからうねびやまであることは、誰が考えても判る。しかし、大概の山は、うねっている。だから、相当、うねっていなくては、うねびやまとはならない。

○その点、霧島山は26個のもの山々の総称だから、どの方角から見ても、途方も無くうねっている。霧島山をうねびやまと総称するのが納得されるうねり方である。その霧島山の最高峰は、韓国岳(1700叩砲噺世ΑI當漫∈嚢睚?その山の代表であることが多い。

○しかし、霧島山は違う。霧島山と言えば、高千穂峯(1574叩砲鮖悗后その証拠に、霧島山を代表する神社、霧島六所権現社を斎き祀るのは、基本的に高千穂峯となっている。ある意味、霧島山の顔が高千穂峯だと言える。

○畝傍山は、そういう意味で、大和三山の筆頭となっている。それは、畝傍山が天孫降臨の世界山だと言うことでもある。つまり、此処から、日本国は始まった。日本創世の場所だと言うことである。

○大和三山とは、どういう山か。それが上記に述べたような山だと言うことである。それは本当は、大和三山と言う。それを、わざわざ邪馬台国三山と命名したのには、もちろん、理由がある。それは奈良県橿原市に存在する大和三山と、日向國に存在する大和三山とを区別するためである。大和三山が二つもあっては、何とも紛らわしい。

○それに加えて、「三国志」が記録する邪馬台国の所在地が、見事に大和三山の所在地と一致するからでもある。つまり、邪馬台国は、日向國に存在したことが判る。それが畿内へ移って、大和国となった。

○もともとは同じものなのだが、表記を変えることで区別できる。それでわざわざ邪馬台国三山と命名したわけである。そうすれば、逆に、邪馬台国の所在地もしっかり区別できる。

○世間では、邪馬台国畿内説とか北九州説がかしがましい。しかし、邪馬台国は間違いなく日向國のものである。それは「三国志」を読むと判る。考古学などと言う、難しい学問は一切、不要である。

○もともと、邪馬台国や卑弥呼は、考古学とは無関係なのである。したがって、邪馬台国や卑弥呼は考古学の範疇外なのである。つまり、考古学者先生は、邪馬台国や卑弥呼に関しては素人となる。その素人である考古学者先生が唱える邪馬台国論や卑弥呼説は、聞くに堪えない。

○ところが、日本の学界では、考古学者先生の邪馬台国論や卑弥呼説が大手を振ってまかり通っている。そういう素人の説であることを、ご本人にまるで自覚が無い。それで堂々と大真面目に説明なさる。見る側が苦笑するしかない。

○はっきりしていることは、邪馬台国も卑弥呼も「三国志」に記録されている史実だと言うことである。それは考古学とは完全に無関係である。三世紀の遺跡や遺物が発見されるたびに、考古学者先生がさも自分のことであるかのように、邪馬台国だとか卑弥呼だと大騒ぎなさる。

○それをマスコミが面白がって大々的に喧伝するものだから、妙な話になっている。邪馬台国や卑弥呼を論じない本当の考古学者先生はすっかり忘れ去られ、範疇外の邪馬台国や卑弥呼にばかり拘泥して止まない考古学者先生が有名になる。そんなおかしな話は無い。

○現在の日本史の、ほとんどは、邪馬台国や卑弥呼を論じるのに、そういう考古学者先生の珍説と言うか、妄説を紹介している。つまり、専門の日本史が邪馬台国や卑弥呼を論じることを放擲してしまっている。おそらくそれは、編集者の意図なのであろうが、何ともふざけた話である。

○陳寿の「三国志」は、司馬遷の「史記」と並んで、中国を代表する正史の一つである。「三国志」で、陳寿が見事に倭国を案内していることに驚く。陳寿は、間違いなく、中国を代表する史家の一人であり、大天才である。

○そのことは、「三国志」を読むと、よく判る。陳壽が三世紀に書いた「三国志」を、千七百年後の二十一世紀になっても、まだ読むことのできない日本人とは、何とも非文化的人々であることか。

○真面目に、丁寧に「三国志」を読むこと。それで間違いなく邪馬台国が何処に存在したかが判る。それが文字の国、中国の実力である。非文化人は、それに平伏すしかない。

○次回、その「三国志」を読みたい。