○これまで歌枕吉野山について、
・吉野山とは何か
・持統天皇の吉野御幸
・天武天皇:吉野山の御歌
・山部宿禰赤人:吉野山の絶唱
・歌枕:吉野山
・古今和歌集の吉野山
・新古今和歌集の吉野山
・西行法師の吉野山
・西行の大先達:行尊
・俳諧師芭蕉の吉野山
・扇にて酒くむかげやちる櫻
と見て来た。そういう中で、吉野山がどのように歌われているか。代表的なものを見ると、およそ次のようになるのではないか。
【万葉集】
天武天皇
,茲人の よしとよく見て よしと言ひし 芳野よく見よ よき人よく見(万葉集: 27)
湯原王、芳野にて作る歌一首
吉野なる 夏実の河の 川淀に 鴨そ鳴くなる 山陰にして
山部宿禰赤人
み吉野の 象山の際の 木末には ここだもさわく 鳥の声かも
い未个燭泙痢〔襪旅垢韻罎韻弌ゝ很收犬佞襦\兇川原に 千鳥しば鳴く
【古今和歌集】
よみ人しらず(春 3)
―娉發燭討襪笋い鼎海澆茲靴里竜般遒了海棒磴蝋澆蠅弔
つらゆき(春 124)
吉野河岸の山吹ふく風に そこの影さへうつろひにけり
壬生忠岑(冬 327)
み吉野の山の白雪踏み分けて入りにし人の 訪れもせぬ
坂上これのり(冬 332)
い△気椶蕕瑛明の月と見るまでに 吉野の里に降れる白雪
【金葉和歌集】
平等院大僧正行尊(金葉521)
,發蹐箸發砲△呂譴隼廚愡海兇ら花よりほかにしる人もなし
【新古今和歌集】
太上天皇:後鳥羽上皇(春 133)
,澣般遒旅睥罎塁散りにけり 嵐も白き春の曙
摂政太政大臣:藤原良経(春 147)
吉野山 花の古郷跡たえて むなしき枝に春風ぞ吹く
藤原雅経(秋 483)
み吉野の山の秋風さ夜深けて 古郷さむく衣うつなり
俊恵法師(冬 588)
い澣般遒了海きくもり雪降れば 麓の里はうち時雨つつ
【西行法師】
ゝ般郢海気らが枝に雪ちりて花おそげなる年にもあるかな(新古79)
吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花をたづねむ(新古86)
5般郢海海困颪硫屬鮓し日より心は身にもそはずなりにき(66)[続後拾遺101]
さ般郢海笋て出でじと思ふ身を花散りなばと人や待つらん(雑1036)
【松尾芭蕉】
≠打て我にきかせよや坊が妻(野ざらし紀行)
∀とくとく心みに浮世すすがばや(野ざらし紀行)
8翩税を經て忍ぶは何をしのぶ草(野ざらし紀行)
ぽ狩りきどくや日々に五里六里(笈の小文)
○時間があれば、もう少し丁寧な検証ができたのであろうが、手元にある資料だけでの検証である。こういうふうに見て来ると、もともと吉野山は歌枕でも何でも無かった。それが「万葉集」の時代である。だから、「万葉集」の和歌には定型が存在しない。
○吉野山が歌枕として最初に定着したのは「古今和歌集」の時代であった。奈良からは極めて近かった吉野山は京都からは随分遠くなる。そうすると、吉野山の概念も随分と変わって来る。そうして出来上がったのが、『峰の白雪』と歌われ、『古郷寒く砧打つ』と詠じる吉野山で、それが定型化したものと思われる。
○また、「新古今和歌集」が次の和歌から始まっていることは、実に興味深い。
摂政太政大臣:藤原良経(春 1)
み吉野は山もかすみて白雪のふりにし里に春はきにけり
太上天皇:後鳥羽上皇(春 2)
ほのぼのと春こそ空にきにけらし天の香具山霞たなびく
○「新古今和歌集」の冒頭が、このように始まることの意義は大きい。「新古今和歌集」の時代がある意味吉野山の時代であることを暗示しているように思えてならない。それでもここで吉野山は『白雪のふりにし里』と歌われている。
○明らかに「新古今和歌集」の時代に、吉野山は『峰の白雪』『古郷寒く砧打つ』と詠じられた吉野山から『花の吉野山』へと変容している。したがって、「新古今和歌集」にはその両方の表現が混在していることが判る。
○芭蕉の凄いところは、そういうことをしっかり学習しているところにある。芭蕉は空手で吉野山へ向かったわけではない。芭蕉の向かう吉野山は、間違いなく歌枕としての吉野山なのである。そういうものをさりげなく句の中に歌い込む。そういう芸当の上手さが芭蕉にはある。
○ただ、芭蕉は宗教を捨てて吉野山に対峙する。そこが芭蕉と西行の差であるし、五百年の時代差だと言えるのかも知れない。あれほど道家思想に染まっている芭蕉なのに、仏教に関しては何故か極めて淡泊なのが芭蕉である。
○芭蕉の吉野山が失敗した最大の理由がそこにあるような気がしてならない。吉野山で宗教を放擲したら、何も残らない。そういう場所が吉野山なのである。それは『峰の白雪』と歌われ、『古郷寒く砧打つ』と詠じる吉野山であっても、『花の吉野山』であっても、まるで変わらない。