更級日記の隅田川 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○「更級日記」の冒頭は、『門出』から始まる。

   あづま路の道の果てよりも、なほ奥つ方に生ひ出でたる人、いかばかりかはあやしかりけむを、い
  かに思ひ始めけることにか、世の中に物語といふもののあんなるを、いかで見ばやと思ひつつ、つれ
  づれなる昼間、宵居などに、姉・継母などやうの人々の、その物語、かの物語、光源氏のあるやうな
  ど、ところどころ語るを聞くに、いとどゆかしさまされど、わが思ふままに、そらにいかでかおぼえ
  語らむ。いみじく心もとなきままに、等身に薬師仏を作りて、手洗ひなどして、人まにみそかに入り
  つつ、「京にとく上げたまひて、物語の多く候ふなる、ある限り見せたまへ」と、身を捨てて額をつ
  き、折りまうすほどに、十三になる年、上らむとて、九月(ながつき)三日門出して、いまたちとい
  ふ所に移る。

○「更級日記」の作者、菅原孝標女が13歳の時、上総国から上京する時の様子を、後年振り返って、書いているのが『門出』である。したがって、当時の記録では無いから、記憶が定かで無いところも多い。

○『門出』の次にあるのが『太井川』で、「ふといかわ」と読む。

   そのつとめて、そこを発ちて、しもつさのくにと、むさしとのさかひにてあるふとゐがはといふが
  かみのせ、まつさとのわたりの津にとまりて、夜ひとよ、舟にてかつがつ物などわたす。
   乳母なる人は、男などもなくなして、境にて子産みたりしかば、はなれて別にのぼる。いと恋しけ
  れば、いかまほしく思ふに、せうとなる人抱きてゐて行きたり。

○文中にあるように、『太井川』は下総国と武蔵国の国境となる川であるから江戸川だと判る。『まつさとのわたりの津』は、現在の松戸市とされる。ここで一行は武蔵国へ入った。

○『太井川』の次は『竹芝寺』となっている。

   今は武蔵の国になりぬ。ことにをかしき所も見えず。浜も砂子白くなどもなく、こひぢのやうにて、
  柴生ふと聞く野も、葦・荻のみ高く生ひて、馬に乗りて弓持たる末見えぬまで、高く生ひ茂りて、中
  を分け行くに、竹芝といふ寺あり。はるかに、ははさうなどいふ所の、廊の跡の礎などあり。

○竹芝寺は、現在の港区三田3丁目の済海寺だとされるから、隅田川界隈の記録は「更級日記」に見えないと思ってしまう。ただ、『竹芝寺』の最後の方に、

   野山、葦荻の中を分くるよりほかのことなくて、武蔵と相模との中に有てあすだ河といふ。在五中
  将の「いざ言問はむ」と詠みける渡りなり。中将の集には すみだ河とあり。舟にてわたりぬれば、
  相模の国になりぬ。
とある。この記録は、どう考えても隅田川の記事であることは間違いない。「更級日記」の作者、菅原孝標女の記憶が混乱していたのであろう。

○実際は、江戸川を渡ってすぐに隅田川である。それからしばらく行くと竹芝寺(済海寺)である。今回、浅草から浜離宮まで川下りしたが、その浜離宮の近くに竹芝寺(済海寺)は存在する。

○因みに武蔵国と相模国との国境にあるのは多摩川である。そういう混乱が菅原孝標女にあったと思われる。鶴見川や相模川など、菅原孝標女一行は多くの河川を渡って旅している。そういう混乱があって不思議ではない。

○判るように、隅田川界隈は、当時の交通の要所であった。武蔵国国府は府中市に存在したが、下総国や上総国、常陸国などへは、直接、海沿いに行っていたことが判る。

○菅原孝標女は11世紀の人である。在原業平より200年ほど後世の話になる。当時、「伊勢物語」が相当読まれ、知られた存在であったことも理解される。