言問橋と業平橋 | 古代文化研究所

古代文化研究所

古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

イメージ 1

イメージ 2

○隅田川界隈を、東京スカイツリー、あさくさ浅草寺、隅田川下りと続けているが、既に9世紀に、この辺りを彷徨い歩いた男が居る。それが在原業平(825~880)である。

○そのことについての詳しい記述が「古今和歌集」巻九:羇旅歌にある。

   武蔵の国と下総の国との中にある隅田川のほとりに至りて、都のいと恋しうおぼえければ、しばし
  川のほとりにおりゐて、思ひやれば、限りなく遠くも来にけるかなと思ひわびてながめをるに、渡し
  守「はや舟にのれ、日暮れぬ」と言ひければ、舟にのりて渡らむとするに、みな人ものわびしくて、
  京におもふ人なくしもあらず、さるをりに白き鳥の嘴と脚とあかき、川のほとりに遊びけり。京には
  見えぬ鳥なりければ、みな人見しらず。渡し守に「これはなに鳥ぞ」と問ひければ、「これなむみや
  こどり」と言ひけるを聞きて詠める、
    名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと

○同じような話を「伊勢物語」第九段も載せている。

   なほ行き行きて、武蔵の国と下総の国との中に、いと大きなる川あり。それを隅田川と言ふ。その
  川のほとりに群れ居て思ひやれば、限りなく遠くも来にけるかなと、侘び合へるに、渡守、
  「はや舟に乗れ。日も暮れぬ。」
  と言ふに、乗りて渡らむとするに、皆人ものわびしくて、京に、思ふ人なきにしもあらず。さる折り
  しも、白き鳥の、嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。京には見えぬ鳥なれ
  ば、皆人見知らず。渡守に問ひければ、
  「これなむ都鳥」
  と言ふを聞きて、
    名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと
  と詠めりければ、舟こぞりて泣きにけり。

○「とうきょうスカイツリー駅」と名称を変えた東武鉄道伊勢崎線の駅名は、業平橋駅だった時代がある。それは、現在の「とうきょうスカイツリー駅」南側を走る浅草通りに、業平橋が架かっていることに拠る。もともとは、大横川が流れていたが、現在は親水公園となっている。もちろん、上記の業平伝説から名付けられた橋名である。

○同じように、隅田川には言問橋が架かっている。吾妻橋の一つ上流の橋名である。今回、天気が良ければスカイツリーから言問橋を渡って浅草寺へ参詣するつもりだった。あいにくの雨天で諦めるしかなかった。

○九世紀には、この辺りは、ほとんど隅田川河口に近かったのではないだろうか。その渡し場が存在した。もちろん、橋など存在しない時代である。相当鄙びたところだったと想像される。だから『都鳥』の名が印象的だったに違いない。

○水害被害も頻繁なところで、それほど、人の住めることでもなかった。そういうところに、現在は大勢の人が生活している。もともと、決して安全な場所ではない。

○芭蕉庵は、吾妻橋から3劼曚媛捨に存在する。芭蕉は17世紀の人である。800年の間に、それほど隅田川は長くなっている。水害も大変だが、蚊などの被害も相当なものだったのではないか。

○金龍山浅草寺は、観音信仰の寺である。もともと、港町の寺だったと思われる。中国では、普陀山が観音信仰の聖地とされる。観音信仰は中国で、既に密接に海と関係している。

○業平が実際にこの地を訪れたとすれば、金龍山浅草寺はすでに存在していたことになる。しかし、当時浅草寺は寒村の小さな庵程度ではなかったか。浅草寺が発展したのは、江戸の大発展に拠るとするしかない。