孟郊:送蕭煉師入四明山 | 古代文化研究所

古代文化研究所

古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

イメージ 1

○もともと、王陽明の「雪竇山」詩に導かれて、雪竇山を訪れた私である。その雪竇山の景物は、存分に私を楽しませてくれたし、雪竇山雪竇資聖禅寺がどんな寺であったかも、十分知ることも出来た。時間が許せば、ここに暫く滞在したいほどのところであった。

○私が訪れた雪竇山は、雪竇山の、ほんの入り口に過ぎない。本当は、この奥に雪竇山の本質があるように思えたのだが、雪竇山参詣は1日と、時間が限られていた。

○雪竇山の歴史は古い。そして多くの雪竇山文学が存在する。折角、雪竇山に参詣したのである。そういう雪竇山文学の幾つかを案内しておきたい。

○諸本を見ると、雪竇山文学で、もっともよく紹介されているのが、孟郊の「送蕭煉師入四明山」詩である。孟郊は、私には、あまり馴染みの無い詩人である。中国の検索エンジン百度『百度百科』が案内する孟郊は、次の通り。

      孟郊
   孟郊,(751~814),唐代诗人,字东野,唐代湖州武康(今浙江德清县)人,祖籍平昌(今山东德州
  临邑县)。先世居洛阳(今属河南)。现存诗歌500多首,以短篇的五言古诗最多,代表作有《游子吟》。
  有“诗囚”之称,又与贾岛齐名,人称“郊寒岛瘦”。元和九年,在阌乡(今河南灵宝)因病去世。张籍
  私谥为贞曜先生。
   据《旧唐书》及线装本《唐诗三百首新注》记载,说他【少隐嵩山,称处士。】两试进士不第,四十
  六岁时才中进士,其欣喜之情,可於《登科后》的【春风得意马蹄疾,一日看尽长安花】二语中见之。
  越四年,任溧阳县尉。由于不能舒展他的抱负,遂放迹林泉间,徘徊赋诗。以至公务多废,县令乃以假
  尉代之。后因河南尹郑余庆之荐,任职河南,晚年生活,多在洛阳度过。宪宗元和九年,郑余庆再度招
  他往兴元府人参军,乃偕妻往赴,行至阌乡县,暴疾而卒。
   孟郊仕历简单,清寒终身,为人耿介倔强,死后曾由郑余庆买棺殓葬。故诗也多写世态炎凉,民间苦
  难。如《择交》的【虽笑未必和,虽哭未必戚。面结口头交,胆里生荆棘】,《伤时》的【有财有势即
  相识,无财无势即路人】;《上达奚舍人》的【万俗皆走圆,以身犹学方】等,语意虽浅拙,却也是伤
  心而悟道之言。
   他年长于韩愈十五岁,有【忘形交】之称,韩诗有【我愿化为云,东野化为龙】语。韩的诡奇艰险处,
  也可能受孟的横空硬语的影响。
   他作诗的态度极为严谨,往往苦思力锤,入深履险,甚至含着涩味,但如《游子吟》等,却又自然亲切。
  http://baike.baidu.com/link?url=0mN0dVgzKZB-SarRvpio3v5ILueDrcZf6VEncDGsOJL27cnrR3c1naWZ5Cz-vYwE

○日本のウィキペディアフリー百科事典にも、孟郊は案内されているが、『百度百科』には比ぶべくもない。
      孟郊
   孟郊(もうこう、751年 - 814年)は中国・唐代の詩人。字は東野、諡は貞曜先生という。
  【略伝】
   湖州武康(浙江省)の出身。狷介不羈で人嫌いのために、若い頃は河南省嵩山に隠れた。798年、5
  0歳の時に三度目で進士に及第し、江蘇省溧陽の尉となった。一生不遇で、憲宗の時代に没する。
  【詩文】
   詩は困窮・怨恨・憂愁を主題としたものが多く、表現は奇異。韓愈とならんで「韓孟」と称せられ
  る。蘇軾は賈島とならべて「郊寒島痩」、つまり孟郊は殺風景で賈島は貧弱と評す。韓愈が推奨する
  ところの詩人であり、「送孟東野序」が知られている。『孟東野集』10巻がある。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E9%83%8A

○孟郊「送蕭煉師入四明山」詩は、次の通り。

  【原文】
    送蕭煉師入四明山
         孟郊
    閒於獨鶴心
    大於高松年
    迥出萬物表
    高棲四明巔
    千尋直裂峰
    百尺倒瀉泉
    絳雪為我飯
    白雲為我田
    靜言不語俗
    靈蹤時歩天

  【書き下し文】
    蕭煉師の四明山に入るを送る
         孟郊
    閒かなり、鶴心の獨なること、
    大なるかな、松年の高きこと。
    迥出す、萬物の表、
    高出す、四明の巔。
    千尋す、直裂の峰、
    百尺たり、倒瀉の泉。
    絳雪、我が為の飯、
    白雲、我が為の田。
    靜言、俗を語らず、
    靈蹤、時に天を歩ましむ。

  【我が儘勝手な私訳】
    雪竇寺には、ただ、高遠の想いの密かに籠もっているばかりで、
    雪竇山に生えている松の樹は、年を経ることの余りに大である。
    雪竇山では、清清楚楚と萬物が表れ出で、
    雪竇山には、四明の山嶺の高く屹立する。
    雪竇山、妙高台の直裂の峰は千尋をなし、
    雪竇山、千丈岩爆布は百尺を流れ落ちる。
    雪竇山の夕陽に赤く染まった雪山は、仙人の為の食糧であり、
    雪竇山の朝陽に照り輝く白雲は、仙人の為の耕作地である。
    雪竇山で言葉静かに語られる会話に、俗世間の話は無く、
    雪竇山の佛様への道を踏み進んでいると、何時の間にか天道を歩いている。

○上記案内に、孟郊の詩評に、『表現は奇異』とあるけれども、まさにその通りである。表題には「送蕭煉師入四明山」とあるのに、この詩にはまるで送別の言葉が無い。この詩は雪竇山の賛美歌と言うしかない。もちろん、それが十分、送別の言葉となってはいるけれども。何とも孟郊が奇想天外な詩人であったことが判る。

○2013年10月15日に、寧波在住の通訳・ガイドの李さんに伴われて、雪竇山を訪れた。孟郊の「送蕭煉師入四明山」詩を読むと、どれ程、孟郊が雪竇山を敬愛していたかが判る。

○孟郊は最初から最後まで雪竇山の話しかしない。間違いなく孟郊は雪竇山を訪れている。そうでなくては、こういうふうに雪竇山を詠うことは難しい。