中西進名誉教授に聞く~其の一~ | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○2013年12月12日、宮崎日々新聞第19面に、「中西進名誉教授(京都市立芸術大)に聞く」と題した一文が載った。日向神話に関して、いろいろと興味深い文である。小見出しと前書きには、次のようにあった。

      「ヒムカ」聖なる異境
      中西進名誉教授(京都市立芸術大)に聞く
      神話は畏敬の象徴
      現代につながる真理も
   本年度の文化勲章を受章した京都市立芸術大名誉教授の中西進さん(84)。万葉集研究の
  第一人者としての顔とともに、古事記や日本書紀(記紀)などに描かれる神話に関しても卓越した
  見識を持つ、神話研究者でもある。
   学会での講演のため宮崎市を訪れた中西さんに、記紀の中で古代南九州を舞台とした「日向神話」
  の味わい方について、ヒントをもらった。        (聞き手:文化部次長・久保田順司)

○新聞記事に拠れば、聞き手が中西進名誉教授に質問しているのは、次の四点である。
  ゝ紀編さん1300年を契機に、記紀を深く学ぼうという機運が高まっている現状をどう受け止め
   ていますか。
  日向神話の起点となる天孫降臨の地は、なぜヒムカだったのでしょう。
  E径更瀘弯析辰慮興蕕呂匹海傍瓩瓩蕕譴泙垢。
  い錣燭靴燭舛蓮崙鋐?析叩廚鬚呂犬瓩箸垢覽紀の神話をどのように楽しめばよいでしょうか。

○ある意味、,筬い亮遡笋蓮△匹Δ任睥匹い海箸任△襦B召貌鋐?析辰遼楴舛帽瓦錣詭簑蠅幾つでも存在するはずである。折角、大先生に質問するのであれば、もっと日向神話の本質に拘わる質問をすべきではなかったか。

○質問が的を射てないだけ、中西進名誉教授の話も、まるで的外れな内容となっている。第一、肝心の天孫降臨の地が何処であるかも、新聞記事では明らかにされていない。これほど間の抜けた話は無い。あるいは、そのことを故意に避けたと勘ぐられても仕方あるまい。

○中西進名誉教授は、『日向神話の起点となる天孫降臨の地は、なぜヒムカだったのでしょう。』について、次のように答えている。

   神の一族が現世に降り立つ場所は聖なる異境であり、ヤマト地方のような、人間の王が治める場所
  ではあり得なかったのです。ヒムカの地は異世界へのあこがれ、畏敬の念の象徴です。根底には太陽
  信仰があります。天孫が目指した場所は古事記に記すところの「朝日が直接差し込み、夕日に照り輝
  く」地つまり、太陽の円運動を手中にしている場所であったのです。太陽を最も多く包有していた異
  土がヒムカに例えられる南九州の地だと捉えられていたのでしょう。
   古くから、東へ向かい太陽を拝む場所は「アワ」「アボ」「アブ」「アヲ」などと音を変えて呼ば
  れていました。宮崎の青島は「アワシマ」でもあり、太陽を拝む場所だったのです。

○この説明に拠れば、天孫降臨の地が日向だった理由は、
  ・ヒムカが聖なる異境であり、ヤマト地方のような、人間の王が治める場所ではあり得なかった
  ・ヒムカの地は異世界へのあこがれ、畏敬の念の象徴
であることになる。それなら、『ヒムカ』は、『人間の王が治める場所ではあり得なかった』地となって、古代人は、わざわざ、そういう僻地の日向を天孫降臨の地として選んだことになる。

○この説は、日向神話を知らないし、まるで、日向を知らない人の意見に過ぎない。何故なら、天孫降臨の後、記紀に拠れば神代三代にわたって、天孫族は日向の地に留まっていることに、全く留意していないからである。日本書紀の記録に拠れば、その時間は、『一百七十九萬二千四百七十余歳』とある。『一百七十九萬二千四百七十余歳』は、いくら何でもオーバーだろうが、長い期間、ずっと日向の地が日本の中心であり、都であり続けた。そういうふうに記紀には書いてある。

○明らかに日本の歴史は西から始まっている。その出発点が日向国だと記紀は説く。それが天孫降臨と言うことなのではないか。当時、日向国にも王が存在したことも当然だろう。中西進名誉教授がおっしゃるような、『ヤマト地方のような、人間の王が治める場所ではあり得なかった』と言う判断は、まるで見当違いである。

○それに、出雲神話と異なって、日向神話は地上神話の始まりであることも忘れてはなるまい。その記念すべき第一歩が天孫降臨なのである。それなら、何よりも、まず第一に、天孫降臨の地が何処であるかを明らかにすべきだろう。何故なら、天孫降臨の山は、日本創世の世界山だからである。そういう日向神話の中で、最も大事で重要なことに中西進名誉教授は、まるで頓着しない。というか、問題にすらしようとしない。

○中西進名誉教授の言葉の端々から窺えることは、神話は理念であって、現実ではないと言うことである。それなら、天孫降臨の地自体が想像と言うことになる。

○こういう神話学者の机上の空論を聞いたところで、得るところは少ないだろう。実際、日向国を歩くと、神代三山陵が存在するし、天孫降臨の地だって、古事記や日本書紀が記しているように、今でも、そのまま存在する。その山容は、まるで、日本創世の世界山に相応しいものである。

○多分、学者先生は、そういうことをご存じ無いに過ぎない。中西進名誉教授は、
  ・根底には太陽信仰があります。天孫が目指した場所は古事記に記すところの「朝日が直接差し込み、
   夕日に照り輝く」地つまり、太陽の円運動を手中にしている場所であったのです。太陽を最も多く
   包有していた異土がヒムカに例えられる南九州の地だと捉えられていたのでしょう。
とおっしゃるけれども、何処の山に登ったところで、独立山であれば、
  ・朝日が直接差し込み、夕日に照り輝く
のが普通の山である。『朝日が直接差し込まず、夕日に照り輝かない』山など、探す方が難しい。

○中西進名誉教授がおっしゃる、
  ・根底には太陽信仰があります。
にしたところで、日向国の太陽信仰は、まるで別物である。それを、多分、中西進名誉教授はご存じあるまい。それほど、日向国の太陽信仰は特別なものである。

○また、中西進名誉教授は、
  ・古くから、東へ向かい太陽を拝む場所は「アワ」「アボ」「アブ」「アヲ」などと音を変えて呼ば
   れていました。宮崎の青島は「アワシマ」でもあり、太陽を拝む場所だったのです。
とおっしゃるけれども、青島を特長付けるものはそれだけでは無い。そのことについては、谷川健一の「日本の地名」(岩波新書)に詳しい。
   私が青という地名に関心を抱いたのは、沖縄本島とその周辺の島々に青という島名をもつところが
  あって、それは古代の葬所を示しているという仲松弥秀の説にうごかされたからであった。(中略)
  沖縄では青の島は死者の葬られた島につけられた名前である。習俗の中で葬制はもっとも変化しにく
  いものである。もし本土の海岸や湖沼に「青」を冠した地名があり、そこが埋葬地と関係があり、ま
  た海人の生活をいとなんでいるならば、南方渡来の民族が移動して、本土の海辺部に定着した痕跡を
  たしかめる手がかりを得るのではないかと私は考えた。柳田国男が、南方から稲作技術をたずさえて
  やってきた人びとの足跡をつかむために、クメ、クミ、コミなどコメの類縁語が本土にどのように残
  っているかを調べて、「米の島考」を書いたことにあやかって、私も本土に見られる「青」の地名を
  たどってみたいと思った。
と述べ、「五、 本土の青の伝承」の章に、本土の「青」の地名を列挙して、詳細に論述している。それによると、日本各地の海岸沿いに存在する青の地名の多くが葬所と関連すると言う。

○インターネットで検索すれば、「青島神社HP」がヒットする。
  青島神社
  http://www9.ocn.ne.jp/~aosima/index.html

○この青島神社HPにもあるように、本来、青島神社は辯才天信仰に基づくものであることが判る。少なくとも、江戸時代まではそうだった。だから、もともと青島神社自体が他所から勧請されたものであることが判る。日本の辯才天信仰の故郷は、鹿児島県三島村硫黄島である。

○太陽信仰は、その辯才天信仰に基づくものに過ぎない。そういうことも知らないで青島を語ることは何とも空虚しい。万葉集研究の第一人者と評される万葉学者に向かって申し上げるのは、甚だ烏滸がましいけれども、青島には「草陰の」「鶏が鳴く」と、枕詞が二つも存在する。そういう言葉は珍しい。

○万葉学者であれば、本当は、そういう話をして欲しかった。聞き手も、自信を持って日向国がどういう国であるかを、何もご存じない万葉学者に教えて欲しかった。意外に、万葉学者や神話学者は日向について何も知らない。それが日向国に住む者の責務であると思うのだが。

○写真は、2013年7月22日、霧島山韓国岳山頂、日の出の写真を掲載しておく。