句章・慈城・明州・寧波 | 古代文化研究所

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○中国の検索エンジン『百度百科』が案内する句章に、
      句章
  【百科名片】
   据史志记载,句章城始建于周元王四年(公元前472年,越勾践24年)为越王勾践所筑《十三州志》
  载“越王勾践之地,南至句余,其后并吴,因大城句余,章(彰)伯(霸)功以示子孙,故曰句章”即
  为周元王四年勾践灭吴,向周天子呈贡,周元王赐勾践胙,并命以“伯”(诸侯之长),越王称霸,勾
  践为向子孙表彰灭吴封伯之功,将原越之南方边地句余扩大而改句章。据《宝庆志》记,古句章在今慈
  溪市南15里,面江为邑,城基尚存,故相传曰城山,傍着城山渡。
とあったし、同じく慈城镇には、
      慈城镇
  【百科名片】
   慈城镇位于宁波市江北区西北部,距市中心14公里,镇域面积70.07平方公里,是全国小城镇综合改
  革试点镇,省、市中心城镇,浙江省历史文化保护区。慈城史称勾、勾余、勾章,自唐开元二十六年
  (公元738年)始至1954年,历1200多年皆为慈溪县治。千年的历史为慈城沉积了深厚历史文化底蕴。
  保存了完整的传统生活结构方式,保留下来的传统建筑中不但有大量的民居建筑。
とある。これらに拠れば、句章の起源は
  ・周元王四年(公元前472年,越勾践24年)
に始まり、
  ・唐开元二十六年(公元738年)
に終わったことになる。

○別に、慈城镇の「历史沿革」に、
   慈城史称勾、勾余、勾章,自唐开元二十六年(公元738年)始至1954年,历1200多年皆为慈溪县治。
   慈城设治始于吴越勾践时(约公元前495年),名叫句章。县治在余姚江畔城山地方,作为越国的屏障。
   唐朝开元26年(公元729年)房琯为令,迁县治于浮碧山以南,浚疏阚湖,以灌溉城郊;又以汉名儒
  董仲舒云世孙董黯母患屡疾,喜欢大隐溪水,奉母筑室以待,担溪水供母饮,母病渐愈,以此故事以名
  县称为慈溪,属明州。
ともあるから、明州に属していたことが判る。

○中国の検索エンジン『百度百科』が載せる明州は、次の通り。

       明州
  ●唐武德四年(公元621年),以鄮县、鄞县、句章县设鄞州,治鄮(mào)县(宁波市鄞州区鄞江镇)。
  ●武德八年(公元625年),废鄞州。
  ●开元二十六年(公元738年),将鄮县分为慈溪、翁山(今舟山定海)、奉化、鄮县四个县,增设明
  州以统辖之。州治设在鄮县(宁波市鄞州区鄞江镇)。
  ●长庆元年(公元821年),明州州治迁到了三江口(今宁波城区)。
  ●五代吴越称明州望海军。北宋建隆元年(960)称明州奉国军。南宋绍兴三年(1133年)置沿海制置使,
  辖温台明越四郡。
  ●南宋庆元元年(1195年),升明州为庆元府,府治设在鄞县(三江口)。
  ●元改府为“路”,庆元府变成了庆元路。
  ●朱元璋吴元年(公元1367年)称明州府,明洪武十四年(公元1381年)为避国号讳,朱元璋取采纳鄞县读
  书人单仲友的建议,取“海定则波宁”之义,将明州改称宁波府。宁波之名沿用至今。[现为宁波市人
  民政府]
   从此宁波代替了明州。一直延续至今未变。
  【《元和郡县图志》记载】
   明州,余姚。上。开元户元和户四千八十三。
   本会稽之贸阝县及句章县地也,春秋越王句践平吴,徙夫差谥甬东,韦昭云“即句章东浃口外洲”,
  是也,武德四年于县立鄞州,八年废。开元二十六年,采访使齐齐浣奏分越州之贸阝县置明州,以境内
  四明山为名。句章故城,在州西一里。
   州境:东西南北八到:西北至上都三千八百五里。西北至东都二千九百四十五里。东北至大海七十
  里,西至越州二百七十五里。西南至台州宁海县一百六十里,至州二百五十里。
   贡、赋:开元贡元和贡:海肘子,橘子,红虾米,?责子,红虾?,乌贼骨管县四:贸阝,奉化,慈
  溪,象山。
   贸阝县,上。郭下。本汉旧县也,属会稽郡。隋平陈,省人句章。武德八年再置,仍移理句章城,后
  属明州。
   大海,在县东七十里。
   翁洲,入海二百里,即春秋所谓甬东地也。越灭吴,请吴王居甬东,吴王曰:“孤老矣,不能事君
  王。”乃缢。其洲周环五百里,有良田湖水,多麋鹿。
   奉化县,上。北至州六十里。本汉之鄞地,开元二十六年采访使齐浣奏置。
   赤苋山,在今县东一十里。
   慈溪县,上。东南至州七十里。本汉贸阝县地,开元二十六年齐浣奏置。
   慈溪,在县南二十二里。
   大海,在县北六十里。
   象山县,中。西北至州水陆相兼一百六十里。本汉鄞县地,神龙元年,监察御史崔?交奏于宁海县东
  界海曲中象山东丽彭姥村置县,东至大海二十里,南至大海三十五里,东北至大海四十里,正北至大海
  一十五里,唯西南有陆路接宁海。

○これに拠れば、
  ・唐武德四年(公元621年),以鄮县、鄞县、句章县设鄞州。治鄮(mào)县(宁波市鄞州区鄞江镇)。
とあるから、この当時、既にこの辺りの中心が句章から鄮县に移っていたことが判る。また、
  ・开元二十六年(公元738年),将鄮县分为慈溪、翁山(今舟山定海)、奉化、鄮县四个县,增设明
  州以统辖之。州治设在鄮县(宁波市鄞州区鄞江镇)。
に、明州が設けられ、州治は同じく鄮县となっている。つまり、明州の中心が鄮县であった。

○慈溪、慈城の名は、
  ・董仲舒云世孙董黯母患屡疾,喜欢大隐溪水,奉母筑室以待,担溪水供母饮,母病渐愈,
   以此故事以名县称为慈溪。
に拠るものとある。

○明州の名は、
  ・以境内四明山为名。
とあることから、四明山からの命名であることが判る。

○寧波が四明とか東明と称されるのも、四明山からの命名に拠るものであろう。

○寧波の名は、明代に起こっている。それは、
  ・朱元璋取采纳鄞县读书人单仲友的建议,取“海定则波宁”之义,将明州改称宁波府。
が起源であることが判る。つまり、明朝の創始者で、初代皇帝でもある朱元璋が、鄞縣の讀書人であった單仲友の、
「海定則波寧」=海定まれば則ち波寧らかなり
の言葉を採用して、それまで明州であった名を寧波と改めた。それは朱元璋が国名を明としたからである。

○先日、長崎を訪れ、長崎四福寺を参拝してきた。長崎四福寺とは、
  ・興福寺
  ・福済寺
  ・崇福寺
  ・聖福寺
を指す。その興福寺の山号は東明山である。