吐火羅國・宝島 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○今回の吐噶喇往還の旅で、合計2000枚くらい、写真を撮った。幸い天候も良くて、たくさんの良い写真を撮ることが出来た。ここでは、その中から、宝島の写真を紹介したい。

○また、子島の写真を撮ることができたのも収穫であった。これまで、子島の写真は、以前宝島を訪れた時、荒木崎から写したものしかなかった。今回は、宝島方面から、奄美大島方面からと、いろいろ角度の違う子島の写真を撮ることができた。

○それは宝島も同様で、これまでは北側からの写真しかなかったが、今回、西側、南側の写真が撮れた。それは今までの宝島のイメージとはまるで違うものである。

○日本に於ける宝島とは、一体何なのだろうか。以前、本ブログに、
  ・書庫「ここまでわかった!邪馬台国」:ブログ『Treasure Island(宝島)』
を書いている。それは宝島が、
  ・会稽(紹興)→寧波(94辧
  ・寧波→舟山群島(150辧
  ・舟山群島→トカラ列島宝島(600辧
  ・トカラ列島宝島→トカラ列島悪石島(50辧
  ・トカラ列島悪石島(50辧泡トカラ列島諏訪之瀬島(24辧
  ・トカラ列島諏訪之瀬島→トカラ列島中之島(28辧
  ・トカラ列島中之島→トカラ列島口之島(14辧
  ・トカラ列島口之島→口永良部島(59辧
  ・口永良部島→硫黄島(36辧
  ・硫黄島→坊津(56辧
のルートに於ける中継基地としての存在であることは、言うまでもない。

○宝島は、単に中継基地として存在しただけではない。ここには、当時、最新の文化が中国からもたらされ、文化国家として成立していた。それが「日本書紀」が伝える、
    聞徳天皇白雉五年)夏四月、吐火羅國男二人・女二人・舎衞女一人、被風流來于日向。
   ◆弊凸静傾鳥闇)秋七月丁亥朔己丑、覩貨邏國男二人女四人、漂泊于筑紫。言、臣等初漂泊于海
    見嶋。乃以驛召。
   (斉明天皇五年三月)丁亥、吐火羅人、共妻舎衞婦人來。
   ぁ弊凸静傾掴伺)秋七月庚子朔乙卯、高麗使人乙相賀取文等罷帰。又覩貨邏人乾豆波斯達阿、欲
    帰本土、求請送使曰、願後朝於大國。所以、留妻為表。乃與数十人、入于西海之路。
   ァ陛敬霤傾帖忙庸春正月丙午朔、大學寮諸學生・陰陽寮・外薬寮、及舎衞女・堕羅女・百濟王善
    光・新羅仕丁等、捧薬及珍異等物進。
等の記事となっている。

○つまり、この時代、十島村や三島村は、都市国家としての機能を備えるほど、栄えた島々であったことが判る。このことは、寛政7年(1785年)に成立した「麑藩名勝考」で、白尾國柱がすでに看破していることである。

○また、宝島の名も気になる。このことについては、本ブログ、
  ・書庫「吐火羅の旅」:ブログ『給黎(きいれ)』
で、既に次のように言及している

    「寶島」は、『三寶の島』の謂いであり、三寶とは、仏法僧を言う。
    つまり、「寶島」とは、「佛の島」の謂いである。
  とするのが妥当なのではないか。

○宝島と言うと、どうしても『Treasure Island(宝島)』のイメージがつきまとう。しかし、それは遙か後世の人々の感覚であって、古代人のものではあるまい。古代に於いて、宝島の感覚はそういうものではなかったと思われてならない。かれらが生きた世界は三世世界であって、現世だけではないのである。

○現代で、吐噶喇列島、宝島を知る人は少ない。何しろ、『日本最後の秘境、吐噶喇列島』と称されるほどの島々であるから。しかし、ここを訪れると、日本発祥の地がここであることを知ることができる。まだ、そういうことを誰も知らない。