子嶋寺 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○宝島から奄美大島までは約90辧¬鷸飴?屬料ノ垢砲覆襦その間、ずっと子島は見え続けていた。また、西側から眺める宝島や、南側から眺める宝島は、これまで眺めてきた北側から見る宝島と、まるで様相を変えている。初めて見た西側からの宝島や、南側からの宝島は美しく、感動させられた。

○船が宝島を離れると、宝島の先に小宝島まで遠望された。きれいな観音様のお姿である。その先には悪石島がうっすら見えたが、写真には写っていない。

○前回、「子島(ねじま)と禰寝(ねじめ)」 と題して、子島について書いた。子島は鹿児島、大隅半島にその地名を禰寝として残している。

○しかし、子島地名は、それだけではない。奈良県高市郡高取町に、上子島・下子島の地名が存在するし、子嶋寺がある。「ウィキペディアフリー百科事典」が載せる子嶋寺は、以下の通り。

      子嶋寺
   子嶋寺(こじまでら)は奈良県高市郡高取町にある高野山真言宗の寺院。山号は子嶋山(報恩山と
  も)。本尊は大日如来。開山は寺伝では僧・報恩と伝える。
   平安時代中期作の国宝・両界曼荼羅図(子島曼荼羅)を伝えることで知られる。「清水の舞台」で
  知られる京都東山の清水寺は子嶋寺の僧・延鎮によって開かれたとされ、平安時代中期以降は真言宗
  子嶋流の道場として栄えるなど、歴史的に重要な寺院である。大和七福神(信貴山朝護孫子寺、久米
  寺、子嶋寺、小房観音寺、談山神社、當麻寺中之坊、安倍文殊院)のひとつ。
  【創建】
   奈良時代以前の創建を伝えるが、草創の時期や経緯については複数の説がある。現在の子嶋寺は近
  鉄壺阪山駅近くにあるが、各種史料に「子嶋山寺」と見えるところからも、創建当時は山間部に位置
  していたと思われる。平安時代中期には一時衰退し、興福寺の僧・真興(しんごう)によって中興さ
  れた。寺号は古くは子嶋寺または子嶋山寺、真興による中興以降は「観覚寺」、近世には「千寿院」
  と称されたが、近代に入って「子嶋寺」に復称した。子嶋寺付近の地名を「高取町大字観覚寺」とい
  うのは旧寺号に由来する。
   創建の事情についてもっとも流布している説は『元亨釈書』の吉野山報恩伝、『本朝高僧伝』の報
  恩伝などに見える説で、天平宝字4年(760年)、孝謙天皇の勅願により、僧報恩が大和国高市郡の
  「子嶋神祠のほとり」に子嶋山寺を建てたとするものである。この「子嶋神祠」は現在、高取町下子
  島(子嶋寺の南方)にある小島神社を指すものと思われる。創建年は寺伝では天平勝宝4年(752年)
  ともいう。一方、『日本書紀』の皇極天皇3年(644年、大化の改新の前年)11月条には「蘇我蝦夷が
  大丹穂山(おおにほやま)に桙削寺(ほこのきでら)を建てた」との記事があり、この「桙削寺」の
  後身が子嶋寺であるとする説がある。この説を取れば、子嶋寺の創建時期は1世紀以上さかのぼるこ
  とになる。また、『延暦僧録』「長岡天皇菩薩伝」には、延暦年間(8世紀末)、桓武天皇が南京丹
  恵山(「丹穂山」の誤りか)に「子嶋山寺」を建立したとの記事もある。大丹穂山は、現在の高取町
  丹生谷に比定されるが、明日香村入谷(にゅうだに)とする説もある。
   平安初期には長谷寺と壺阪寺に次ぐ大和国の観音霊場として栄えた。京都・清水寺は、子嶋寺二世
  延鎮と坂上田村麻呂により子嶋寺の支坊として開かれた。『今昔物語』等に取り上げられている清水
  寺開創伝承によれば、清水寺は子嶋寺の僧・延鎮(賢心)が霊夢を得て音羽の滝にたどりつき、千手
  観音を祀って開創したものである(『今昔物語』には「小島山寺」と見える)。
   諸史料に「子嶋山寺」と見えるところからも、創建当初の子嶋寺は山中に位置していたと思われる。
  子嶋寺の東南方の山中に観音院(高取町上子島)という寺があるが、この寺は山号を「子嶋山」と称
  し、創建縁起についても子嶋寺と同様の伝承を伝えるところから、関連の深い寺院と思われ、創建当
  時の子嶋寺はこの付近にあったとも考えられている。

○奈良県高市郡高取町に存在する子嶋寺は、上記案内にあるように、現在、『子嶋寺(こじまでら)』と呼ばれているが、本来、それは『ねじまてら』だったと思われてならない。ここが観音信仰の聖地であることを考えれば、納得されることである。

○日本で、最初に、観音信仰が渡って来た地が宝島であることは、その地理的状況によってから間違いないことである。その宝島の属島であり、宝島よりも、もっと西南に位置する子島は、ある意味、観音信仰には、重要な地名なのである。

○また、奈良県高市郡高取町が大和盆地の最南端に位置することも見逃せない。最も南の信仰の地として、子島地名が採用されたものと思われる。そういう意味で、子嶋寺が、
  ・各種史料に「子嶋山寺」と見える
とあるのは、注目に値する。上記案内には、それを、
  ・創建当時は山間部に位置していたと思われる。
と判断するが、そうではあるまい。中国、舟山群島に行けば判ることだが、観音信仰の聖地、舟山群島では、島々の名を「○○山」と命名している。だから、山名は、本来、島名であったことが判る。

○おそらく、子島地名は、観音信仰とともに、大和国に伝来したものと思われる。度々、大和国は訪れているし、飛鳥高松塚古墳や御所市茅原にある吉祥草寺までは出掛けているが、子嶋寺は未見である。気になる寺である。機会を見付けて参拝したい。