吉野山の正体(再掲) | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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●長々と神代三山陵について述べているが、日本古代史に於ける神代三山陵の存在は、それほど大きく、重要だと言うことになる。

●今時、神代三山陵の研究など、ほとんどなさる方もいらっしゃらないのではないか。しかし、神代三山陵をとことん突き詰めて行くと、日本国起源がどのようになされて来たかを窺い知ることが出来る。

●寛政七年(1785年)刊行の「麑藩名勝考」の著者、白尾國柱が神代三山陵をもっともよく研究している。その白尾國柱の意見を無視して神代三山陵を考えることはできない。白尾國柱に従って神代三山陵を追求して行くと、実に意外なところに可愛山陵は私たちを誘う。

●以下のブログ「吉野山の正体」は、2011年5月31日に書いたもので、書庫『奥駈道を歩く(吉野から弥山まで)』に掲載している。

○以前、本ブログでは、書庫「吉野山の正体」で、既に29回に渡って吉野山が何なのかについて書いている。その後、書庫「吉野山の正体捕逸」でも、吉野山について9回書いてきた。

○これまで吉野山蔵王堂あたりまでは数回訪れているし、こういうことを考え始めた後にも、2008年3月と2009年3月の二回、吉野を訪れた。その後、硫黄島を、
  ・2009年5月
  ・2009年6月
  ・2010年11月
  ・2011年3月
の4回訪れ、
  ・書庫:『三島村・薪能「俊寛」』(38個のブログ)
  ・書庫:『硫黄島』(42個のブログ)
  ・書庫:『三島村秘史』(30個のブログ)
  ・書庫:『Camellian硫黄島』(30個のブログ)
を書いてきた。

○今回、大峯奥駈道を吉野から弥山まで歩いたのも、本当の吉野山とは一体、何なのかを知ることにあったことは言うまでもない。もちろん、見たことのないものを勝手に空想し、想像し、仮説を立てることも自由なのだけれども、幸い、吉野山は実在する場所である。だから、少し遠いけれども、こうして現地を訪れることによって、本当に自分の考えが正しいかどうかを検証することが出来る。

○最初書いた「吉野山の正体」の2008年ころとは、その知識が増えたことによって、吉野山がどういうものであるかについて、相当、概念が変容したことも事実である。それでも、吉野山が『江の山』であると言うことはずっと変わりない。と言うか、間違いなく吉野山は『江の山』なのである。

○吉野山の開祖、神変大菩薩役の行者小角が何故、役の行者と呼ばれるか、誰も言及しない。彼の故郷である、奈良県御所市茅原にある、吉祥草寺も訪れてみたが、それを示すようなものは何も存在しなかった。

○しかし、役の行者が『江の行者』であれば、『役の行者』とは、吉野山で修行する行者の謂いに過ぎない。それが『江の行者』と言うことであり、『役の行者』の名になったものと思われる。判るように、『『役の行者』の名自体が、吉野山が『江の山』であることを示す名であった。

○本来、吉野山とは、大峯三山の謂いである。今は吉野山で、誰も大峯三山などと言う言葉を使う人はいないだろうが、もともと吉野山信仰は大峯三山信仰であると思われる。

○その証拠に、金峯山寺蔵王堂には、秘仏本尊蔵王権現三体が祀られている。その蔵王権現について、金峯山寺のホームページには、
   金峯山寺にお祀りされる御本尊は、金剛蔵王大権現であります。今から1300有余年前、金峯山山上
  ヶ岳に役行者が一千日の修行に入り、感得された権現仏であります。権現とは権(仮り)に現われる
  という意味で、本地仏の釈迦如来(過去世)、千手観音(現在世)、弥勒菩薩(未来世)が権化され
  て、過去・現在・未来の三世にわたる衆生の救済を誓願して出現されました。また金剛蔵王とは、金
  剛界と胎蔵界を統べるという意味も表しています。
との説明がある。しかし、この説明は詭弁に過ぎない。役の行者が感得したのが蔵王権現であれば、それはどう考えても一体の尊像であろう。それが同じような尊像が三体もあるはずがない。仮に、「釈迦如来(過去世)、千手観音(現在世)、弥勒菩薩(未来世)が権化」したものとすれば、それなら、「釈迦如来・千手観音・弥勒菩薩」を祀れば済むことである。それが合体した尊像など、あり得るはずもなかろう。加えて、それが三体もあると言うのだから、そんなおかしな話はない。

○吉野山信仰で三尊像を祀るのは、それが本来、大峯三山信仰に基づくものであるからに他ならない。今の吉野山は完全に大峯三山を見失っている。大峯三山とは、
  ・大日如来=山上ケ岳(大峯山)
  ・観音菩薩=稲村ケ岳
  ・弥勒菩薩=大天井ケ岳
の謂いである。

○吉野山信仰はどんどん拡大成長して行って、その本質が本来、どういうものであったかさえ、見失う結果となっている。本来、極めて具体的具象的な素朴自然なものであったものが、いつの間にか、それが抽象化され、また、それが仏像として再び具象化され、まるで違うものに変容している。それは仕方のないことかも知れないが、少なくともそれは、神変大菩薩役の行者小角が感得したものとは、まるで違うものであることに留意する必要があろう。

○今でも、鹿児島県鹿児島郡三島村の硫黄島に行くと、原初の大峯三山信仰の本来の姿を見ることが出来る。ここが蔵王権現の故郷であることは間違いない。

○この話は、決して、現在の吉野山信仰を否定したり、冒涜しようとするものではない。そうではなく、むしろ、逆に吉野山信仰の根源を探り、原初の吉野山信仰が、本来、どういうものであったか、その本質に迫ろうとするものである。本当に、吉野山信仰に帰依する者であれば、誰でもその根源・本質を知りたいと思うのではないか。

○おそらく、神変大菩薩役の行者小角が七世紀に吉野山に蔵王権現を持ち込んだのであろう。しかし、それは大峯三山信仰と言う、極めて素朴自然な山岳信仰であったに違いない。

○七世紀に、吉野山を頻繁に訪れたのは、神変大菩薩役の行者小角だけではないことにも留意する必要がある。「日本書紀」に拠れば、持統天皇は九年間に三十回以上も吉野御幸を繰り返している。面白いことに神変大菩薩役の行者小角と持統天皇は、ほぼ同時代の人である。それなのに、何故か、神変大菩薩役の行者小角と持統天皇の関係に言及する人は誰もいない。不思議な話である。

○一体、持統天皇は吉野山に何をしに出掛けたのだろうか。単なる物見遊山であるはずもなかろう。それは後世の歴史が教えてくれる。後白河院(1127~1192)の熊野詣では、34回にも及んでいる。おそらく持統天皇の吉野山詣でも、同じような信仰心からであろう。

○それでは、持統天皇は蔵王権現を信奉していたのかと言う問題になる。多分、それは違う。何故なら、もし、持統天皇が蔵王権現を信奉していたのであれば、その痕跡が吉野山に残るはずだろうし、記紀などが記録しないはずがない。それがまるで無い以上、持統天皇は別の目的で吉野山を訪れたと考えるしかない。

○おそらく、それほど強く持統天皇を突き動かしたのは、祖霊信仰に基づく信念であったと思われる。吉野山はまた、神代三山陵の一つ、彦火瓊々杵尊の御陵、可愛山陵でもある。あの天孫降臨の尊の御陵と言うことだ。このことについては、本ブログの書庫:「吉野山の正体」で詳しく検証しているので、それを参照していただくしかない。

○もちろん、本物は旧日向国に存在するのだが、その先坣僑位が吉野山なのである。つまり、天皇家の祖霊がここに祀られていたことになる。この事実は、現在の吉野山では完全に失われてしまっている。ただ、神代三山陵を追いかけると、何故かここに行き着く。

○これが本当の吉野山の正体である。まだまだ、吉野山について知らないことが多過ぎる。これから何度も吉野山を訪れ、吉野山の正体をもっと明らかにする必要を感じる。

○再度、硫黄島の大峯三山の写真を掲載する。これが原初の吉野山信仰の姿である。その後、日本各地に蔵王信仰や辯才天信仰は広がって行ったが、吉野山の凄いところは、まがりなりにも、その原初の姿を留めているところにある。それだけ、ここの信仰は長い間、原初の姿を守ろうとしたのであろう。そのお陰で、我々は蔵王信仰や辯才天信仰のもっとも古い形を窺い知ることが出来る。

●2011年11月25日から29日にかけて、五回目の硫黄島訪問を果たした。このことについては、
  ・書庫『ツワブキの硫黄島』:33個のブログ
として書いているので参照されたい。

●多分、上記の文章を読んだ方々は、可愛山陵と吉野山の正体がどういう関係にあるかに混乱があると感じられるに違いない。可愛山陵が肝属町内之浦叶嶽だと言いながら、ここでは硫黄島であると言う。そんなおかしな話はない。

●しかし、それが真実の可愛山陵の正体なのである。可愛山陵は肝属町内之浦叶嶽だし、また硫黄島でもある。要するに、可愛山陵には二つの顔が存在すると言うことである。

●一つは、神代三代の初代、彦火瓊々杵尊の御陵としての顔である。もちろん、それが肝属町内之浦叶嶽であることは言うまでもない。もう一つの顔がここで取り上げた吉野山信仰・大峯信仰・蔵王信仰・修験道信仰・弁財天信仰・江島信仰・弥山信仰に基づく顔である。

●このことを説明するのは、なかなか容易なことではない。しかし、このことが可愛山陵の正体を知ることに繋がるから、次回に詳しく説明したい。