佐伯氏が舎衞城氏であること | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○安芸の宮島は、もともと広島県佐伯郡厳島町であった。この佐伯郡の名は厳島神社の神主家の名前に由来するとされている。

○厳島神社にHPはないけれども、宮島観光公式サイト」HPには、嚴島神社由来について、次のように載せる。

      嚴島神社の由来
   嚴島神社の創建は、推古元年(593年)、佐伯鞍職によると伝えられます。平安時代後期の仁安3年(1
  168年)には、佐伯景弘が嚴島神社を崇敬した平清盛の援助を得て、今日のような廻廊で結ばれた海上
  社殿を造営。本殿以下37棟の本宮(内宮)と、対岸の地御前に19棟の外宮が設けられ、全て完成する
  までに数年が費やされたといわれます。社運は平家一門の権勢が増大していくにつれ高まり、その名
  を世に広く知られるようになりました。
   鎌倉時代から戦国時代にかけて政情が不安定になり荒廃した時期があったものの、弘治元年(1555
  年)、厳島の合戦で勝利を収めた毛利元就が神社を支配下に置き庇護したことから、社運は再び上
  昇。天下統一を目前にした豊臣秀吉も参詣して武運長久を祈願しており、その年安国寺恵瓊に大経堂
  (千畳閣)建立を命じています。
   嚴島神社は社殿が洲浜にあるため海水に浸る床柱は腐食しやすく、また永い歴史の間には幾度とな
  く自然災害や火災に見舞われてきましたが、その度に島内外の人々の篤い信仰心に支えられて修理再
  建され、今日まで平安の昔さながらの荘厳華麗な姿を伝えています。

○これに拠れば、嚴島神社の創建は佐伯鞍職(くらもと)であることが判る。その佐伯氏がずっと厳島神社の神主家として嚴島神社を保持してきたわけである。つまり、安芸の宮島、嚴島神社の歴史は佐伯氏とともにあることは間違いない。

○その佐伯氏がどういう氏族であるか、諸本は何も伝えていない。大分県に佐伯市(さいきし)が存在するように、佐伯氏は広く西日本に広がっている。もちろん、佐伯氏が海洋民族の名であることは誰にも異論はないのではないか。

○弘法大師空海の俗名が佐伯眞魚であることも注意を要する。讃岐国多度郡の豪族であった佐伯直田公(法名善通)が空海の父になる。

○四国霊場第75番札所の五岳山善通寺を訪れると、海から5、6劼曚匹發△蝓⊃鑛海から離れているように感じるけれども、善通寺は多度郡屏風浦善通寺と呼ばれ、多度津を港とした交通の要所となっている。佐伯直田公はそうした交易を営んでいたものと思われる。

○空海は真言宗の宗祖として知られているが、開祖となる以前から僧であり、修行を繰り返していた。おそらく佐伯氏自体が仏教徒であったことは間違いあるまい。

○安芸の宮島、嚴島神社の創建が佐伯鞍職(くらもと)であることは、意味深長である。本来、ここは辯才天信仰の聖地である。今では嚴島神社の創建は佐伯鞍職(くらもと)となっているけれども、本来、佐伯鞍職(くらもと)が嚴島神社で齋き祀っていたのは辯才天であろう。その証拠に、明治の神仏分離令まで嚴島神社本殿に祀られていたのは間違いなく辯才天である。

○佐伯氏の氏名(うじな)も興味深い。広島では『さえき』であるが大分では『さいき』とする。日本に於ける辯才天信仰の起源が鹿児島県硫黄島であることを勘案した時、「佐伯(さえき・さいき)」は、佛說阿彌陀經が載せる「舎衞國(しゃえこく)」とするしかない。

     佛說阿彌陀經
                           姚秦三藏法師鳩摩羅什譯
   如是我聞。一時佛在舍衛國,祇樹給孤獨園。與大比丘衆,千二百五十人俱,皆是大阿羅漢,
  衆所知識:長老舍利弗、摩訶目犍連、摩訶迦葉、摩訶迦旃延、摩訶俱絺羅、離婆多、周利槃陀伽、
  難陀、阿難陀、羅侯羅、憍梵波提、賓頭盧頗羅墮、迦留陀夷、摩訶劫賓那、薄拘羅、阿那樓馱,
  如是等諸大弟子。

○何故そうなるかを説明すれば、まず最初に、日本の辯才天の発祥の地は鹿児島県の硫黄島であると言うことから説明する必要がある。このことについては、本ブログ、
  ・書庫:三島村・薪能「俊寛」(38個のブログ)
  ・書庫:硫黄島(42個のブログ)
  ・書庫:三島村秘史(30個のブログ)
  ・書庫:Camellian硫黄島(30個のブログ)  
等で詳しく検証していることなので、そちらを参照していただくしかない。

○別に、「日本書紀」には、『吐火羅國』『舎衞』と言う記録を載せる。このことについては、本ブログの書庫「吐火羅の旅」の中にブログ『トカラ・吐噶喇・吐火羅・寶・渡加羅』として書いているのを参照されたい。

○つまり、鹿児島県硫黄島に日本の辯才天信仰は始まり、その地が舎衞と呼ばれていたことが判る。このことから、辯才天信仰に舎衞國が深く関係していることが判る。その『舎衞城(しゃえき)』が『佐伯(さえき・さいき)となった可能性は高いし、それ以外に「佐伯」地名を説明することは難しいのではないか。

○嚴島神社のご祭神を、辯才天から市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命の宗像三女神に変容させたところで、嚴島神社の本質が変容するわけでもあるまい。それでも宮島には弥山が屹立するし、長浜神社が存在する。嚴島神社はご祭神を変えることには成功出来ても、その創建が佐伯鞍職(くらもと)であることを失念しているとしか言いようがない。

○世界遺産にしたところで同じである。世界遺産嚴島神社が弥山を離れて存在することはあり得ない話である。それなら「世界遺産宮島」か、「世界遺産厳島」が本当ではないか。そうでなくては宮島に対しても世界遺産に対しても失礼であろう。

○観念的には神仏分離は、多分、可能なのだろう。しかし、日本創世の段階で、すでに係わっている神仏を分離することは、現実として日本では無理だと私は考える。