平家物語~卒塔婆流し~ | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○「平家物語」巻二に、『卒塔婆流し』の段がある。平判官康頼が俊寛僧都や丹波少将成経とともに、鬼界ケ島に流され、そこで千本の卒塔婆を作り、海に流したと言う。その一つが厳島神社に流れ着き、その流れ着いたところが、今でも厳島神社内に残されている。

○「平家物語」は、物語である。だから、それは全てが史実ではなく、多くの脚色に包まれていると思ったが良い。ただ、その中に、当時、信じられていた物事や考え方が反映していることも見逃せない。

○気になるので、「平家物語」巻二、『卒塔婆流し』の段を紹介すると、

   康頼入道、故郷の恋しきままに、せめてのはかりごとに、千本の卒塔婆を作り、阿字の梵字・年
  号・月日・仮名実名・二首の歌を書いたりける。
    薩摩潟沖の小島に我ありと親には告げよ八重の潮風
    思ひやれしばしと思ふ旅だにもなを故郷は恋しきものを
   是を浦に持つて出て、「南無帰命頂礼、梵天帝釈、四大天王、堅牢地神、鎮守諸大明神、殊には熊
  野権現、厳島大明神、せめては一本なりとも都へ伝へて給へ」とて、沖津白波の寄せては返へるたび
  ごとに、卒塔婆を海にぞ浮かべける。卒塔婆を作り出すに随つて、海に入れければ、日数積もれば卒
  塔婆の数も積もり、その思ふ心や便りの風ともなりたりけむ、又神明佛陀もや送らせ給ひけむ、千本
  の卒塔婆の中に一本、安芸国厳島の大明神の御前の渚に打ち上げたり。

○安芸国厳島神社と平清盛の関係は深い。だから、どうしてもそちらの方に目が行ってしまうが、安芸国厳島神社が辯才天信仰であることを考えた場合、この『卒塔婆流し』の段は、辯才天信仰を中心に考えるべきなのだろう。

○それは我々現代人がほとんど失いかけている信仰の問題である。平判官康頼が流されたのは、現在の鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島になる。本ブログでは、
  ・書庫:三島村・薪能「俊寛」(38個のブログ)
  ・書庫:硫黄島(42個のブログ)
  ・書庫:三島村秘史(30個のブログ)
  ・書庫:Camellian硫黄島(30個のブログ)
等で詳しく書いているが、辯才天信仰を辿ると、日本の辯才天信仰の故郷は硫黄島になる。

○だから、当時の人々にとって、平判官康頼の卒塔婆が安芸国厳島神社に漂着したのは決して偶然なのではないことが判る。それは辯才天様のお導きに拠るのである。そのことを理解しない限り、「平家物語」巻二、『卒塔婆流し』の段の真意・神意を酌み取ることはできない。

○おそらく「平家物語」成立の時代には、そういうことは常識であり、当たり前のことであったに違いない。ただ、現在の我々はそういうことを知らないで「平家物語」を読んで、理解したつもりでいる。それでは到底、真に「平家物語」を読み解くことはできない。何故なら、本来「平家物語」読者の対象に我々は含まれていないのであるから。

○卒塔婆が安芸国厳島神社に漂着した様子についても、「平家物語」は詳しく書いている。

   康頼が所縁ありける僧、然るべき便りもあらば、如何にしても彼島へ渡つて、其の行方を聞かむと
  て、西国修行に出たりけるが、まづ厳島へぞ参りける。ここに宮人と思しくて狩衣装束なる俗一人出
  きたり。此の僧何となき物語しけるに、「夫れ、和光同塵の利生様々なりと申せども、如何なりける
  因縁を持つて、此の御神は海漫の鱗に縁を結ばせ給ふらん」と問ひ奉る。宮人答へけるは、「是はよ
  な、娑竭羅龍王の第三の姫宮、胎蔵界の垂迹なり」。此島に御影向ありし初めより、済度利生の今に
  至るまで、甚深の奇特の事どもをぞ語りける。さればにや、八社の御殿甍を並べ、社はわたつみのほ
  とりなれば、潮の満干に月ぞ澄む。潮満ち来れば大鳥居の朱の玉墻瑠璃の如し。潮引きぬれば、夏の
  夜なれど、御前の白洲に霜ぞ置く。いよいよ尊く覚えて、法施まいらせて居たりけるに、やうやう日
  暮れ、月差し出て、潮の満ちけるが、そこはかとなく藻屑どもの揺られ寄りける中に、卒塔婆の形の
  見えけるを、何となう取つて見ければ、沖の小島に我ありと、書き流せる言の葉なり。文字をば彫り
  入れ刻み付けたりければ、波にも洗はれず、あざあざとして見えたりける。

○ここには安芸国厳島神社の祭神を『娑竭羅龍王の第三の姫宮、胎蔵界の垂迹』としている。すなわち、娑竭羅龍王の娘で、その年わずか八歳の竜少女を祀り、胎蔵界の大日如来を祀るとする。「娑竭羅龍王の第三の姫宮」は「妙法蓮華経」第五巻『提婆達多品第十二』に出現する話である。「娑竭羅龍王」とは「海神」の謂いである。

○すなわち、辯才天が娑竭羅龍王の第三の姫宮となっていることから、「平家物語」成立の時代には、すでに辯才天信仰が完全に真言宗に変容させられていることが判る。この時代に、すでに宮島では辯才天信仰が失われつつあった。

○もちろん、これには「平家物語」の脚色もあろうから、本当に厳島神社がそうだったかどうかは別問題である。ただ、「平家物語」作者にそういう意識があったことだけは間違いない。

○厳島神社境内には「卒塔婆石」が存在し、以下の案内書があった。

      卒塔婆石
   鬼界島(硫黄島)に流された平康頼が母恋しさに千本の卒塔婆に二首の和歌を書いて海に流した。
  そのうちの一本が池の中の石に流れ着いたといわれる。

○「卒塔婆石」の近くには「康頼燈籠」もある。

      康頼燈籠
   鬼界島の配流先から許され帰京した平康頼が神恩を感謝して奉納した燈籠と伝えられています。

○「平家物語」巻二、『卒塔婆流し』の段を読むのもなかなか難しい。しかし、硫黄島を訪れると硫黄島が日本辯才天信仰発祥の地であることを実感出来る。詳しくは上述したブログを読んでいただくしかない。