日本のパルテノン神殿 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○「大和三山の歌」で見てきたように、邪馬台国三山である、
  ・きりしまのうねびやま
  ・かごしまのかぐやま
  ・ひらききのみみなしやま
には、それぞれの歴史が存在する。そのことは前回紹介した「万葉集が記録する大和三山」を見ればよく判る。

○「万葉集」には香具山が十四回、畝傍山が六回、耳成山が三回記録されている。判るように、「万葉集」が記録する大和三山は同じではなく、相当の温度差が存在する。これは「万葉集」の時代、香具山は最も新しい記憶であり、耳成山は相当古い時代に存在するものだったと思われる。

○邪馬台国三山の中では、畝傍山は日本創世の世界山であるから、最も古い歴史が存在する。だから「万葉集」の中でも畝傍山の記憶は大きい。

○逆に言うと、「魏志倭人伝」が記録する三世紀のころ、もっとも繁栄していたのはおそらく耳成山なのであろう。その証拠に、「魏志倭人伝」が案内する邪馬台国は、
  ]楚雄濛喨?貽鄲膤で恵罅0融嚇莪拗駘元貮翰捷顱4岨?朝見者今使訳所通三十国。従郡至倭循海
   岸水行歴韓国乍南乍東到其北岸狗邪韓国七千余里。始度一海千余里至対海国。其大官曰卑狗副曰卑
   奴毋離。所居絶島方可四百余里。土地山険多深林道路如禽鹿径。有千余戸。無良田。食海物自活。
   乗船南北市糴。又南渡一海千余里名曰瀚海至一大国。官亦曰卑狗副曰卑奴毋離。方可三百里。多竹
   木叢林有三千許家。差有田地耕田猶不足食。亦南北市糴。又渡一海千余里至末廬国。有四千余戸濱
   山海居。草木茂盛行不見前人。好捕魚鰒水無深浅皆沈没取之。東南陸行五百里到伊都国。官曰爾支
   副曰泄謨觚柄渠觚。有千余戸世有王皆統属女王国。郡使往来常所駐。東南至奴国百里。官曰兕馬觚
   副曰卑奴毋離。有二万余戸。東行至不彌国百里。官曰多模副曰卑奴毋離。有千余家。南至投馬国水
   行二十日。官曰彌彌副曰彌彌那利。可五万余戸。南至邪馬壹国。女王之所都。水行十日陸行一月。
   官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮。可七万余戸。
  ⊆郡至女王国萬二千余里。
  7彗尭士め頂濂餬療賁蠻慧譟
  そ衢無與儋耳朱崖同。
  セ果簣礎論篋潦っ羹V最珪紂或絶或連周旋可五千余里。
となっている。
●このうち、,魏国の帯方郡から邪馬台国までの道程、△和喨?瓦ら邪馬台国までの総距離数、は邪馬台国の位置、い麓拉和羚颪僚俗、イ蕨噌颪料澗料釮鯆鷦┐靴討い襦
●邪馬台国へ行くのに、,傍鬚辰峠膽|ると、
  ・帯方郡から狗邪韓国(七千余里)
  ・対海国(千余里)
  ・一大国(千余里)
  ・末廬国(千余里)
  ・伊都国(五百里)
  ・奴国(百里)
  ・不彌国(百里)
  ・投馬国(水行二十日)
  ・邪馬壹国(水行十日陸行一月)
となる。帯方郡から末廬国まででちょうど萬余里。
●『セ果簣礎論篋潦っ羹V最珪紂或絶或連周旋可五千余里』とあるから、倭国は周回できる。その総距離は『五千余里』。
●帯方郡から末廬国までの総距離数がちょうど『萬余里』となるから、それに、『⊆郡至女王国萬二千余里』を考慮すれば、末廬国から邪馬台国までの距離数は『二千余里』となる。
●従って、末廬国から邪馬台国に至るには、
  ・二千余里
  ・三千余里
の二つの行程が考えられる。,離襦璽箸倭蠹?垢ぁだから『三千余里』ルートであろうと思われる。末廬国から邪馬台国に至る二千余里ルートは、末廬国から邪馬台国に直接至る、別ルートだと思われる。
●判るように、ここで魏国が認識する倭国は、どう考えても九州島である。それ以外にも倭の地は存在するが、「魏志倭人伝」で魏国が認識している倭国の全容は、九州島以外ではあり得ない。

●『7彗尭士め頂濂餬療賁蠻慧譟戮竜事が意味するところも大きい。それは邪馬台国が『会稽東冶』の東に位置すると言うのだから。
●会稽東冶は中国の地名で、北緯26度あたりに相当する。ここから真っ直ぐ東に向かうと、邪馬台国に到着することになる。当時、そういう倭国へ渡るルートが存在したことを明示する記事である。
●このルートは寧波から周山諸島を経て、宝島から吐噶喇列島経由で倭国へ至る道である。その先に邪馬台国が存在することは当たり前の話である。
●このことをわざわざ「魏志倭人伝」が記録するのにも理由がある。それは従来、邪馬台国が通交していたのは呉国であった。その邪馬台国が魏国へ初めて通交したことを記録したのが「魏志倭人伝」の記事と言うことになる。
●だから、倭国が中国と通交を始めたのは決して三世紀ではないことも判る。それ以前から邪馬台国は呉国と頻繁に通交し、文物を取り入れていた。そのことを「魏志倭人伝」は、
   自古以來其使詣中国皆自称大夫
とはっきり明記している。
●また、この記事が『其使詣中国皆自称大夫』と、倭使が自らを『大夫』と称していたことも見逃してはなるまい。中国人にとって、倭人が自ら『大夫』と名乗ることは驚きであったに違いない。
●さらに、「魏志倭人伝」が、『そ衢無與儋耳朱崖同』と言い、『ハ礎論篋潦っ羹V最珪紂或絶或』と言う様は、薩南諸島の風景であることは言うまでもなかろう。これで北九州や近畿地方をイメージすることは、どう考えても不可能である。

○その薩南諸島から邪馬台国に至る。その境界に『ひらききのみみなしやま』が屹立する。それはその風景を実見した者にしかイメージできまい。まさしくそれが『ひらききのみみなしやま(何でも願い事を聞き届けてくれる海と陸との境界に鎮座まします山神)』なのである。

○現在では辺境の地に存在すると思われている薩摩国一の宮である枚聞神社が鎮座ましますところは、そういう地なのである。『ひらききのみみなしやま』は地上から遙拝される山神ではない。それは海上から遙拝される存在であることを忘れてはならない。

○おそらく、耳成山の時代に、薩南諸島は日本の地中海であった。アテナイのアクロポリスの上に建設されたパルテノン神殿こそが、竜宮城、枚聞神社である。

○日本にそういう時代が存在したことを記録しているのが「魏志倭人伝」である。「魏志倭人伝」を読むと判るのだが、「魏志倭人伝」が記録しているのは、農耕民族の倭人ではない。それは明らかに海洋民族の倭人像である。

○その証拠に、「魏志倭人伝」が記録する倭使の大夫を南九州では今でも実見できる。鹿児島県鹿児島郡三島村の竹島・硫黄島・黒島では各島の神官は自ら『大夫』と今でも名乗っている。おそらくそういう身分の者が三世紀には倭使として呉国や魏国に乗り込んでいたのであろう。

○一介の遺物や遺跡から邪馬台国を妄想するのも、もちろん自由である。しかし、それでは何の解決にもなるまい。世界は広いし、歴史は深い。それに、肝心の「魏志倭人伝」が読めないではどうすることも出来まい。少なくとも「魏志倭人伝」が記録する世界は、歴史家や考古学者の発言しているようなものではない。

○三山信仰を辿ると、こういう世界が広がっている。それは「古事記」や「日本(やまと)書紀」、「万葉集」が記録する世界でもある。そういうものを一切無視して語られる邪馬台国や卑弥呼を私は信じない。肝心の「魏志倭人伝」が邪馬台国とするのも薩摩国なのだから。

○邪馬台国が何処に存在するか。知りたかったら、とにかく、まじめに「魏志倭人伝」を読むしかない。それでも「魏志倭人伝」を読むことはなかなか難しい。本来、「魏志倭人伝」は中国の史書だし、それに一般読者を対象としているわけでもない。それを案内するのが「完読魏志倭人伝」(2010年1月:高城書房刊)である。単に「魏志倭人伝」を通読するだけでなく、「三國志」巻三十、『烏丸鮮卑東夷傅』全文を通読しているので、「魏志倭人伝」自体がどういう文であるかも判る。「魏志倭人伝」の読み方には案内も付けている。