日本創世の世界山 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○前回、「日本のパルテノン神殿」と題して、『ひらききのみみなしやま』について触れた。おそらく「魏志倭人伝」が伝える三世紀の邪馬台国はこの当時の様子であろうと思われる。

○今回は『きりしまのうねびやま』について考えてみたい。もちろん、『きりしまのうねびやま』が天孫降臨の山であり、日本創世の世界山であることは言うまでもない。

○天孫降臨なさったのは、神代三代の最初、彦火瓊々杵尊である。しかし、「古事記」や「日本書紀」を読むと判るのだが、「古事記」や「日本書紀」が記録している彦火瓊々杵尊の記述はそれほど詳細なものではない。このことについては、すでに本ブログ、
  ・書庫「神代三山陵の研究」:ブログ『神代三山陵の研究』
  ・書庫「神代三山陵の研究」:ブログ『神代三山陵の研究』
で詳しく述べているので参照されたい。

○簡単にまとめると、「古事記」や「日本書紀」が記録している彦火瓊々杵尊と言えば、
  ‘三篤發猨女の君・猨田毘古神の話。
  ∋摩半島方面に向かったらしいこと。
  L擴崘刑患很詒禛筺平整ぢ薪堡翡筺砲鳩觝Г靴拭
  せ匐,法火照命・火須勢理命・火遠理命があった。
  ッ淹臚鋐?聴η兄確佑冒鬚辰拭
くらいであって、降臨の後、彦火瓊々杵尊の行動と言えば、
  ・薩摩半島方面に向かい、
  ・結婚し、
  ・子供を設け、
  ・亡くなった。
であって、あまりの記事の少なさにむしろ、驚かされる。

○「古事記」や「日本書紀」が記録する猿田彦命や天鈿女命が彦火瓊々杵尊の随身であることも注意を要する。彦火瓊々杵尊を天孫降臨の山に導いたのもこの二人であろう。ある意味、それは修験道の前鬼・後鬼と同じである。

○大山祇神の娘、木花之佐久夜毘売との仲立ちもこの二人である。その大山祇神を齋き祀るのが、愛媛県今治市大三島町(大三島)に鎮座まします大山祇神社で、三島神社の総本社とされている。

○しかし、本来、大山祇神は、ここの出ではない。その証拠に、「古事記」や「日本書紀」には大三島の記録が一切無い。それに大三島で、大山祇神を説明することはできない。加えて、伊予の大山祇神社で三島を説明することにも無理がある。

○木花之佐久夜毘売は、大山祇神の娘である。だから、当然、大山祇神の出は日向国以外に考えられない。それに、大山祇神の御名に『大山祇神』とある以上、それは山神以外に考えられない。

○そういうことを考慮すれば、大山祇神の出は硫黄島となる。旧日向国でそういうところは硫黄島以外に存在しないのである。

○彦火瓊々杵尊が天孫降臨し、たどり着いた地が薩摩国であった。そこで結婚したのが大山祇神の娘、木花之佐久夜毘売である。結果、彦火瓊々杵尊が手にしたのは中国や琉球との交易の権益であった。それによって彦火瓊々杵尊は日本国創世の力を得ることができた。

○「古事記」や「日本書紀」が『きりしまのうねびやま』を日本創世の世界山とするのにも理由がある。それは文物は移入に拠ったが、それを採用した人々が何処か他所から移入した人々ではなく、在地の人々であったことを説明したかったからであろう。もちろん、その原点は天上からの降臨という話になっている。

○初代天皇である神倭伊波禮毘古命(神武天皇)にしたところで、その出生地は『きりしまのうねびやま』の東南の地、狭野となっている。もちろん、これも造作されたものであろうが、少なくともそういう配慮が「古事記」や「日本書紀」の随所に見られることを見逃すことはできない。

○その天孫降臨の神、彦火瓊々杵尊の御陵が可愛山陵と言うのも、また意味深長である。現在、可愛山陵比定地は、
  ・鹿児島県薩摩川内市の新田神社裏の亀山
となっているけれども、そんなものは当てにできない。第一、神代三山陵が各地に分散する方が不自然である。神代三山陵を考えた場合、それはおそらく、
  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦の甫与志岳(叶岳)
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦の国見岳
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
であろう。もちろん、ここからは『きりしまのうねびやま』が望見される。

○南九州、薩摩国・大隅国・日向国の何処からでも望見される山が『きりしまのうねびやま』なのである。だから、ここが日本創世の世界山に認定されるに至った。本当は、天孫降臨の地を考える場合、そういうことを考慮しない限り、選択の余地はない。

○それなのに、天孫降臨の山を宮崎県高千穂町だとおっしゃる方も多い。それは全く見当違いも甚だしい。詳しくは、本ブログの書庫「神代三山陵の研究」で検証しているので参照されたい。

○山であれば、登ってみること。島であれば、出掛けてみること。それも出来れば複数回繰り返して。そうすればそれまで見えなかったものが自然と見えてくる。そういう作業を繰り返すことによって初めてものが見えてくる。そしてそれが古代人が見ていたのと同じ風景であることもそこで初めて理解出来る。

○どうして「古事記」や「日本書紀」が『きりしまのうねびやま』を日本創世の世界山に認定したのか。意外とそれは現代の世界遺産選定と同じ精神構造であることが判る。そんなことは当たり前である。同じ人間の考えることなのだから。しかし、意外とそういうふうに考える人はいない。我々は無意識に古代人を見下ろしている気がする。けれども、我々が思っている以上に古代人は賢いし、その感覚は我々以上に鋭敏で鋭い。案外、見下ろされているのは我々現代人の方なのかも知れない。

○その『きりしまのうねびやま』が突然噴火したのは、2011年1月19日のことであった。その様子については、本ブログ、
  ・書庫「」新燃岳の噴火」
に20回に渡って詳しく書いているので、参照されたい。