纒向の神 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○2011年1月22日付の、朝日新聞や宮崎日々新聞の『卑弥呼の供え物か』報道や、昨夜、1月23日、午後9時からNHKスペシャル番組『邪馬台国を掘る』を視ながら、纒向遺跡とは何なのだろうと思った。

○フリー百科事典ウィキペディアでは、以下のように纒向遺跡を規定している。

   纒向遺跡または纏向遺跡(まきむくいせき)は奈良県桜井市、御諸山(みもろやま)とも三室山
  (みむろやま)とも呼ばれる三輪山の北西麓一帯に広がる弥生時代末期から古墳時代前期にかけての
  大集落遺跡である。建設された主時期は3世紀で、前方後円墳発祥の地とされている。この遺跡を倭
  国連合の首都である邪馬台国に比定する説もある。卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳など、6つの古
  墳を持つ。

○実際、巻向を訪れて、誰もが注目するのは三輪山であろう。巻向は三輪山の周縁部に形成された遺跡である。だから、纒向遺跡を成した人々は三輪山を信仰する人々であったと思われる。

○三輪山について、ウィキペディアは以下のように説明する。

   三輪山(みわやま)は、奈良県桜井市にある山。奈良県北部奈良盆地の南東部に位置し、
  標高467.1m、周囲16km。三諸山(みもろやま)ともいう。なだらかな円錐形の山である。
  【伝記】
   三輪山は、縄文時代又は弥生時代から、自然物崇拝をする原始信仰の対象であったとされている。
  古墳時代に入ると、山麓地帯には次々と大きな古墳が作られた。そのことから、この一帯を中心にし
  て日本列島を代表する政治的勢力、すなわちヤマト政権の初期の三輪政権(王朝)が存在したと考え
  られている。200から300メートルの大きな古墳が並び、そのうちには第10代の崇神天皇(行灯山古
  墳)、第12代の景行天皇(渋谷向山古墳)の陵があるとされ、さらに箸墓古墳(はしはかこふん)は
  『魏志』倭人伝に現れる邪馬台国の女王卑弥呼の墓ではないかと推測されている。『記紀』には、三
  輪山伝説として、奈良県桜井市にある大神神社の祭神・大物主神(別称三輪明神)の伝説が載せられ
  ている。よって、三輪山は神の鎮座する山、神奈備とされている。

○その三輪山の麓に鎮座ましますのが大和国一の宮である大神神社(おおみわじんじゃ)である。同じく
ウィキペディアの案内では、次のようにある。

   大神神社(おおみわじんじゃ)は奈良県桜井市にある神社である。式内社(名神大)、大和国一宮
  で中世には二十二社の中七社のひとつとされた。旧社格は官幣大社(現・別表神社)。三輪明神、三
  輪神社とも呼ばれる。
   大物主大神(おおものぬしのおおかみ)を祀る。日本神話に記される創建の由諸や大和朝廷創始か
  ら存在する理由などから「日本最古の神社」と称されている。日本国内で最も古い神社のうちの1つ
  であると考えられている。
   三輪山そのものを神体(神体山)として成立した神社であり、今日でも本殿をもたず、拝殿から三
  輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。自然を崇拝するアニミズム
  の特色が認められるため、三輪山信仰は縄文か弥生にまで遡ると想像されている。拝殿奥にある三ツ
  鳥居は、明神鳥居3つを1つに組み合わせた特異な形式のものであるが、日本唯一のものではなく、他
  にも三ツ鳥居は存在する。

○上記にあるように、大神神社の御祭神は大物主大神(おおものぬしのおおかみ)と申し上げる。その大物主大神について、ウィキペディアの記述は次の通り。

   大物主(おおものぬし、大物主大神)は、日本神話に登場する神。大神神社の祭神、倭大物主櫛甕
  魂命。『出雲国造神賀詞』では大物主櫛甕玉という。大穴持(大国主神)の和魂(にきみたま)であ
  るとする。別名 三輪明神。
   『古事記』によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大国主神
  がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光輝い
  てやってくる神様が表れ、大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した。大国主神が「どなたです
  か?」と聞くと「我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり」と答えたという。『日本書
  紀』の一書では大国主神の別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神
  として祀ったとある。

○面白いことに、大和には大和地名を説明出来る場所が何処にも存在しない。多くの学者はこの三輪山の山麓が大和地名の起源であると説いている。ここに倭の屯田(やまとのみた)が存在したことを論拠とする意見であるが、そんなものが大和地名の起源になるはずもない。大和地名は間違いなく他所から移入された地名であることが明らかである。

○それでは何故、大神神社(おおみわじんじゃ)は大和国一宮となり得たのであろうか。本来なら、この地に進出した最初の天皇である神武天皇を齋き祀る社が大和国一宮となるのが妥当であるのに。近世まで神武天皇を齋き祀る社そのものが大和国に存在していなかったことは興味深い事実である。

○神武天皇の后は媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)と申し上げる。その媛蹈鞴五十鈴媛命の父が大物主大神である。つまり、大和国一宮である大神神社は本来、大和国の産土神であったことが判る。そこに進出して来たのが神武天皇であったわけである。

○大物主大神が出雲神であることも忘れてはならない。もともと大物主大神も、この地に神武天皇以前に進出してきた神であった。そういう複層の歴史を辿らない限り、纒向の神の正体を突き止めることは難しい。

○纒向遺跡が存在するのだから、三世紀にここに高い文化を持った人々が存在していたことは間違いない。しかし、それはおそらく、邪馬台国の人々とは別の人々であろう。何故なら、魏志倭人伝を読む限り、邪馬台国がここに存在することはあり得ないからである。邪馬台国はあくまで魏志倭人伝が記録する史実である。魏志倭人伝に拠らない邪馬台国など全て虚妄の説であり、信ずるに足りない。

○今回の纒向遺跡を発掘した桜井市教育委員会はそういうことを何も説明することなく、纒向遺跡が邪馬台国であると言って憚らない。それはまやかしであって、虚妄の説であると言うしかない。纒向遺跡が邪馬台国であって欲しいと言う願望を前面に押し出す姿勢からは何も生まれるはずもない。学者であり、学問を志す者であるなら、もっと冷静に対応すべきではないか。

○おそらく、近い将来、卑弥呼の墓は発掘されるであろう。その時、考古学者はどういう対応を取るのだろうか。それは纒向遺跡を掘っている人々だけでなく、吉野ヶ里遺跡を邪馬台国であると喧伝してやまない人々も同じである。邪馬台国がそんなところにないことは当事者にも判っているのではないか。茶番の後始末を考古学者はどうするのだろうか。妄想に付き合わされているマスコミにしたところで同じであろう。

○魏志倭人伝は全文1984字しかない。それでもこれを正確に読み解くことは容易な作業ではない。著者である陳寿に翻弄されてしまうのがせいぜいである。そのことを端的に表しているのが京都大学の宮崎市定の次の言葉である。
   このように『史記』においては何よりも、本文の意味の解明を先立てなければならないが、これは
  古典の場合已むを得ない。古典の解釈は多かれ少なかれ謎解きであって、正に著者との知恵比べであ
  る。そしてこの謎解きに失敗すれば、すっかり著者に馬鹿にされて了って、本文はまっとうな意味を
  伝えてくれないのである。                 (「宮崎市定全集5 史記」自跋)

○現代の邪馬台国暴走の原点も実はここにある。『謎解きに失敗すれば、すっかり著者に馬鹿にされて了って、本文はまっとうな意味を伝えてくれない』悲しい現状を打破するには、正確に読み解いた本を読む以外にない。お勧めは『完読 魏志倭人伝』(2010年1月・高城書房刊)である。この本以外に真っ当に魏志倭人伝を読破した本を見たことがない。

○『完読 魏志倭人伝』を読めば、邪馬台国の全貌が明らかとなる。これまで誰もが苦労した狗奴国の存在も明らかにされる。意外と卑弥呼が文化的存在であったことも判る。卑弥呼はシャーマンではないし、まして、道教の教祖などではあり得ない。卑弥呼は現在でも形を変えてはいるが、日本各地で祀られ、尊崇されている。卑弥呼ほどの人物がそう簡単に歴史に埋没するはずもなかろう。

○真面目に魏志倭人伝を読むこと。そうすれば邪馬台国が見えてくる。邪馬台国発見に考古学は不要とは言わないけれども、それは補助的なものであって、本来、邪馬台国が魏志倭人伝の史実であることを忘れた考古学者の言い分は聞くに堪えない。